束縛、甘い檻



「またね」

耳に掛かる男の息の熱さ。掛かっていた重さがなくなって傾きがなくなるベッド。遠のく男の気配。ホテル特有のドアが閉まる金属音。自分ひとりになった空間。何も見えない。後ろで腕を束ねられたせいで目隠しが外せない。何も纏わない体に感じるシーツの柔らかさ。時間が経ちすぎて冷たくなっている指先。事後特有の身体の怠さ。異常な疲労。そして嫌悪感。

どれくらいそうしていたかわからない。身じろぎするのさえ億劫だった。しばらくして、また扉が開く音がした。ゆっくりとした足取り。近くまで来た気配はすぐに離れた。テレビが付いた音がした。チャンネルが切り替えられてひとつの番組で止まった。語られる内容が最近の製薬会社の話で、それがニュース番組だとわかる。足音の主はそのテレビ番組を見ているらしく、私を自由にしてくれない。

「…カブト?」

口から出た呼びかけは小さかった。いままでなら、顧客が帰ったあと入れ替わりで部屋に来るカブトが、一番にするのは私の状態を確かめることだった。私がどのように扱われたのか、事前の契約通りの、払われた金額に見合う行為だったか確かめる。それから私を綺麗にして元通りにする。それがカブトの仕事だった。だから、何かがいつもと違うと感じた。それが、とてつもなく怖い。カブトであるはずの足音の主は返事をしなかった。ニュースがスポーツの話題に移ってやっと気配がこちらに来た。ベッドに重さが掛かり傾いた。そしてやっと、目隠しが解かれた。眩しさにひそめた眉が、カブトと目が合って深くなった。

「どうしたって思っているだろうね。まあ、色々あったとしか君には言わないよ」

言い回しはいつも通りだったのだけれど、カブトの顔はひどかった。瞼の片方は腫れてるし口の端も切れてる。けれど一番はカブトの目だった。声色もいつものように何か楽しそうに弾んでて、語り口も私の考えを言い当てる昔のままなのに、目が違かった。私を射抜くそれは熱いのに、同時に私以外の何かを冷たく睨んでいるようで。それがどうしようもなく怖かった。

「腕、解いて」
「どうしようかなあ、」

シーツに散らばった私の髪を指に絡ませながらカブトは言った。いつだって同じ。カブトは私を支配する。いまの私だってカブトに解いてもらわなきゃずっとこのまま不自由だった。裸のまま後手に拘束された私を高い位置から眺めて、「まったく、あの人は理解できない」とカブトは笑った。

「またね」と言った男は、ひとの服を脱がして拘束するのが好きだった。支配欲のかたまり。カブトとどこか似てる。それなのに他人事のようなことを言うものだから、カブトを見る視線が厳しくなる。

「僕を非難するのかな」

私の毛先で遊んでいたカブトがいきなり髪を掴んで自分に引き寄せた。カブトの息が鼻先を撫でた。むっとするアルコールの匂い。思わず身を固くした私をベッドに倒したカブトは、スーツのジャケットを脱ぎながら跨ってきた。何をされるかは明らかで、抵抗するには手は後ろで縛られて何もできないし、何をするのにも疲れすぎてる。カブトの好きなようにさせようと、あきらめの印に目を閉じた。





男に加えて、カブトの加減のない行為の後の痛みを感じながら、シャワーを浴びた。バスルームの鏡に映るのは、痣だらけの身体だった。その時部屋がノックされた。バスローブを来て、ドアのところでルームサービスで頼んだ氷を受け取ってカブトの傍にいった。

カブトはソファに座っていた。変わらずの視線を、部屋の窓に投げていた。口角が何かを面白がっているように上がっているのに視線の鋭くて、そのちぐはぐさが、怖い。静かに隣に座って備え付けのタオルで包んだ氷を、カブトの顔に当てる。私に気付いていなかったらしいカブトは冷たさに驚いて私を見た。でもそれ以上に私が驚いていた。どうしてこんなことをしたのかわからなかった。

「…痣は冷やさなきゃダメなんでしょ」

驚いた自分に対する言い分だった。カブトの手が私の手に重なって、腫れた瞼にしっかり氷が当たるようにした。カブトは目を閉じた。私はただその様子を見ていた。徐々に体温で溶ける氷。タオルからしずくがこぼれて、カブトの頬を濡らした。まるで泣いているみたいで私はどうしていいかわからなかった。

「ジュリだけだよ」

その言葉の意味が私にはわからない。そして何よりも、いまこうしている私自身が理解できなかった。怖いのに、逃げたいのに、どうしてかカブトの手中にいる自分がわからない。