爪を立てた



 鏡の前に立つ。先週行ったサークルの夏合宿の名残の日焼けが目に入った。オールラウンドサークルといえば聞こえはいいけれど、主な活動といえば、定期的に大学の近くの市民体育館を借りてやるお遊び程度のスポーツと、それよりもずっと多い頻度で開かれる飲み会。サークル費を払って、代交代や卒業コンパなんかの大きい飲み会には参加していたけれど、合宿に参加したのは四年目で初めてだった。

楽しかったなあ、と思い返しながら、日焼けの境目をなぞった。あの人はこれを見て、何かいうだろうか、なんて淡い期待。



(初めて会ったときから、綺麗な肌しているなって思っていたよ)

(美しいよ。白くて、なめらかで―――、汚したくなるね)


頭の中で声がした。鏡のなか、私がなぞっていたはずの鎖骨を、大きくて節くれ立った力強い手が、滑らかに動く蛇のようにしつこい指が、触れていた。ぞっとした。もう一度鏡をよく見る。そこにあるのは確かに私の手。微かに震えている私の指。鏡に映るのは、私だけ。大丈夫だと言い聞かせた。それでも、あの手が私の口を覆いねじ伏せたこと、あの指が私の肌を走り引っ掻いたことは容易に思い出すことができた。匂い、息遣い、私とは違う質感。

それでも、今ここにいるのは私で、私に触れているのは紛れもなく私の手で、指で。あの頃との違いは、私の肌がほんの少し焼けていること。誰の痕も、何の痕もない、わずかに焼けた私の肌。

チッ、チッ、チッ―――。背後で時計の秒針が鳴っていた。こんなことをしていたら、怒られてしまう。鏡の横に置かれた洋服を手に取る。バイトのドレスコードである、紫の柔らかい素材のシャツと黒いスキニー。今の肌の色の方がしっくりくる気がした。

もう一度、鏡を見る。物が少ない部屋に、ぽつんと置かれた大きな鏡は、異様で違和感があった。まるで持ち主と同じだな、と思いながら部屋を出た。



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