愛は難しい



どうして、うまくできないんだろう。簡単だったのに。昔の私は知らなかった。受け入れれば痛い思いをしないで済むということを。それを知った後、私は受け入れた。受け入れれば愛された。そんな簡単なことができない。私は知らなかった。受け入れるのが、こんなに難しいなんて。

「出かけよう」

普段よりも早い時間に来たカブトは笑顔で言った。嫌な笑い方。私はそれがある種の信号であると知っている。

「どこに」
「事務所さ。あの人は時間にうるさいから、早く用意して」

カブトはそう言って、クローゼットを漁る。私は読んでいた本を手に持ったままでいた。こうなることは分かってた。カブトはそのために戻ってきた。だからいつかはあの人のところへ私も戻ることは分かってたのに。

「まさか、いやとか言うんじゃないだろうね」

笑みを浮かべながら喉を鳴らした。カブトはそばにやってくると座ったままの私の腕を引っ張って立たせた。勢いで本が音を立てて落ちた。そのまま鏡の前に立たされる。「着替えて」そう言われて、カブトが選んだ洋服を受け取ろうと手を伸ばす。けれど、カブトは私と向かい合うようにベッドに腰かけて洋服を渡してくれない。

「練習だと思って、脱いでごらん」

手を顎に添えて、カブトは面白そうに私を見ているのが鏡越しに見えた。その視線から逃げるように、ブラウスのボタンに置いた手へと視線を落とす。ゆっくり、ひとつずつ。丁寧に指を動かす。ささやかな抵抗のつもりだったのに、それは染み着いた昔のやり方だった。不慣れで怯えているかのように、ゆっくりとボタンを外す。布の奥にあるものを相手にじらしながら見せていくために、ひとつずつ。私の指先がどれだけのことができるのか想像させるために、指を丁寧に動かす。すべて計算だった。そうして、片方ずつ肩をブラウスから出す。はらり、ブラウスの水溜まりが足元にできた。そして、振り返って今度は、挑発的に相手を見やればいい。

それができない。こんな簡単なことが。ためらいでいつの間にか閉じていた瞳を開けると、まだ鏡にはカブトの視線があった。私のなかにある動揺なんてカブトにはありありと伝わっているはず。私がそれをすべてごまかすために振り向こうとするとカブトは立ち上がって私のすぐ後ろに立った。思わず身体が強張る。

「そんな顔しないで。これからあの人の所に行くのに、教え直してる時間はないんだ」

カブトは身をかがめて私の耳元で話す。その声がじんわりと頭に染み込んでいく。その囁きから頭を傾けて逃げようとする気持ちを堪えていることも、カブトは気が付いている。反対側の頬には、手が添えられていた。そっと頬を撫で上げると、指先を首筋に走らせる。ぞわり、気分が悪くなった。鎖骨をなぞった指が下に降りて胸のふくらみをなぞり、へそをかすめてウエストを掴んだ。「下も脱いで」と、鏡越しに私を見てカブトは言った。スカートのボタンを外して、ファスナーに手を掛ける。小さく音を立てて、スカートが水溜まりのように足元に円を作って落ちた。

「綺麗だよ」

カブトがむき出しの太ももを撫でた。鏡に映る身体は、夏の名残も消えかけて彼の赤い痕ももなくなった。あるのは、青、赤、緑、黄色。変色した痣。これのどこが綺麗なのか、今の私には分からなかった。あの人もカブトも同じように私を見る。私の身体に投げる執着の視線。両足だけでなく、全身すっぽりとぬかるみに沈んだこの身体のどこが綺麗なのか。それを教えようとするカブトを私は受け入れない。もう昔のようには、いかない。だって私は知ってしまった。受け入れられることを知ってしまったから。無条件に受け入れられる心地よさを知ってしまったから。彼と出会ってしまった今はもう、受け入れられない。