好きだから蹴る



カブトの手から逃げたかった。初めて会ったとき私に「汚したくなるね」といったときから、彼は私の肌を汚すことが上手かった。

耳に響いた声に反射的に肩が跳ね上がる。カブトの身体を押しのけて、床を這った。逃げたかった。けれど、次の瞬間には足首に激痛を感じて、それどころではなくなる。振り返ると、カブトが私の足首を踏みつけていた。

「どうやら、もう一度教え直さなきゃいけないみたいだね」

なにがそんなに楽しいのか、愉快そうな顔をしていた。足首からカブトの足が退いたと思うと、一度真上に上げて勢いをつけて、私の太ももに下ろした。言葉にもならない声が上がる。何度も手足を踏みつけられ蹴りこまれて、立ち上がる気にもならないくらい痛みが支配した。抵抗せずに床にしがみついて耐えている私に満足したのか、カブトは蹴るのをやめた。

「久しぶりだから、力の加減ができないかも。ごめんね」

私の横に膝をついたカブトが口角を上げて、のぞき込んできた。痛みのせいで流れた涙を頬からカブトが指でなぞった。その行動ですら、気分が悪くなる。それでも拒絶を示せばもっとひどいことが起きると十二分に分かっている私は、黙ってそれを受け入れた。「せっかくベッドがあるから、そっちに行こう」という彼は私の腕を引いて立たせようとする。足に力を入れても踏ん張れない。カブトに抱えられるように、ベッドに寝かされる。

何が起きるかは、明らかだった。もうカブトと何度もしてきた行為。私の服に丁寧に手を掛けるのも変わらない。愛されたいなら、受け入れなきゃダメだよ、という言葉を何度も唱えた。受け入れたいのに、受け入れられない。涙が零れる。私は今も昔も愛されたいだけなのに。どうしてカブトを受け入れられないの。どうして、頭には彼のことが浮かぶの。

カブトの唇が、首元に落ちる。そうして、鎖骨をなぞり、胸にたどり着く。時々する痛みで、カブトが彼のつけた痕の上に痕を付けているのだと想像した。彼の記憶が汚されるような気がして、また一筋涙が頬を伝った。「焼ける前だったら、もっと痕の赤が映えたのに、残念だね」とこぼすカブトに何も返さなかった。

「久しぶりだっていうのに、だんまりかい?」

「まあ、そうしていられるのも今のうちだからいいと思うよ」と笑ったカブトは、私の足に手を伸ばした。ズボンと下着をはぎ取る。むき出しの足に手を這わせ、踏んで蹴った場所を丹念に調べる。軽く撫でたり、強く押したりして、私の顔が歪むのを楽しんでいる。足首から始まり少しずつ上に登って来た指が足の付け根で止まる。片足を持ち上げられて、足を開くことになった。「さすがに濡れてないか」とカブトがつまらなそうにいった。

「これなら、どうかな」
「…ん、あ!」

カブトの指がいきなり私の中に入ってくる。痛みで声が上がった。

「やっとしゃべったね」
「いた、い」
「大丈夫、あとは気持ちよくなるだけだから」

その言葉は嘘ではなかった。カブトは私のことを知っている。受け入れたくないのに、受け入れ始める自分がいた。身体の芯が熱くなり、呼吸が上がる。私はいつも、カブトの手の平で転がされていた。今もそれは変わらない。手中に収められた私は、望まなくてもカブトの思い通りにするしかなかった。





全てが終わって、カブトはベッドから立ち上がった。もう涙は枯れていた。ベッドで動かないでいる私のむき出しの肩をひと撫でしてからカブトは出て行った。身体の痛みを抱えながら、ベッドから起き上がり腰掛ける。去り際にカブトがローテーブルに置いた紙切れが視界に入った。ゼロが4つ並ぶ数枚のそれを見て、あの日のカブトがいったばいばいが最後の別れじゃなかったと思った私の確信が正しかったのだと実感した。

玄関に置いたままの鞄から携帯を取り出して、アンコさんに掛ける。バイトを辞めさせてほしいとお願いした。「いつ?」という質問に「今日です」答える。理由を質問されても仕方がないとは思ったけれど、アンコさんは何も聞かずに承諾してくれた。他のバイトの子には卒論を仕上げるのが大変という理由にしとくとまで言ってくれた。

「ありがとう、ございます…」

それ以上なにも言えなかった。アンコさんはいつもの元気な声で「いいのよ」と笑ってくれた。申し訳なさに顔が歪み、声が震えるまえに電話を切った。

それから、彼に連絡しようと思った。「待ってて」って言われたのに待てなくてごめんなさいと言いたかった。それから、お別れをしたかった。そこで、私は彼の連絡先を知らないことを思い出す。胸を襲うのは、どうしようもない悲しさ。カブトの唇が彼のつけた痕に重なって、彼との記憶が汚された気分になったのに。カブトに手が肌を走り私のなかに入り込んだとき、痛みのなかで思ったのは彼の指使いだったのに。私は彼に、満足に謝ることもさよならもできないらしい。