忠告をひとつ



最後に会ったのは、カブトが大学院を卒業したとき。いくつか思ったことといえば、不安と安心、疑問と確信だった。





肌になじむカブトの指使いを感じながら、不安になった。私が知らないことを教えてくれたのはカブトだった。もう教えてくれる人がいないと思うと、不安でたまらなくなった。そして、もうカブトになにも探られなくてすむと思うと、安心で息をするのが楽になった。もう彼の言葉に惑わされることがなくなると思った。ばいばい、といつものように弾んだ声で私にいった。

カブトが私を知っているように、私もカブトを知っていた。だからこそカブトが選んだ選択肢に疑問しかなかった。ここを去って、私を置いて、カブトは本当に行ってしまうのだろうか。知っていても彼の頭のなかは、分からなかった。きっとカブトはカブトの考えがあるんだろうと思った。そして、これは最後の別れではないと確信していた。これがもしも最後の別れだったら、ばいばいの薄っぺらい言葉ではすまないことは、知っていた。それを教えたのはカブト自身だった。






笑っているカブトの顔を見て、やっぱりなという正直な感想。それから、どうして、いまになってという疑問。エアコンの風から守るために自分の身体を抱きしめれば、カブトは私を見て目を細めた。

「どうしてって思っているだろうね」

カブトが私の考えをわざと口に出して確かめるのは昔からだった。

「説明するとね、僕の働いているところがいま少し不安定な状態なんだ。いつでも、あの人のところに戻れるようにしておきたくてね」
「私はもう関係ない」
「ああ、それは聞いてる」

呆れたようにカブトはため息を吐いた。カブトのなかではシナリオはすでに出来上がっているんだと感じた。私はいつも、手のうちで転がされる。

「あの人が金のなる木の君を手放したのは、ただ枯れかけたからだ。持ち直った君なら、そうそう簡単に逃がさないさ。それに、あの人は僕なら君を育て直せるってご存知だしね」
「…私は、もうやめたの」
「君だって、お金はいるだろう」
「バイトしてるから、」
「アンコのところで、だろう」

「僕がなんにも知らない状態で、君のところに戻ってくるわけないだろう」とくすくすとカブトは笑った。震える肩は、冷気か悪寒かわからない。

「正直言って、君がまたアンコとつるんでるのは驚きだよ」
「アンコさんは関係ない」

アンコさんが差し伸べてくれた手の温かさはいまでも思えている。私の数少ない大切な人。カブトもそれを分かっている。

「ごめんごめん。ジュリはアンコが好きだったね。だったら、アンコのためだと思えばいいんじゃないか。まあ、君ならお金のためって思えばいいと思うけど」

お金は必要だった。片足だけのつもりが、いつの間にか両足どっぷり浸かっていた。ぬかるみから引き抜いた足は乾き始めていたけど、どうせもう汚れている。だったら、もう一度汚れようが構わない気がした。すこし、余分に足が乾く時間がいるだけ。

無言は肯定のしるしだと受け取ったカブトは満足そうに笑って、じゃあ、また電話するよとベッドから立ち上がった。早くいなくなってほしかった。いまだに突っ立ったままの私の横で立ち止まり、視線を私の肌に走らせた。

「日に焼けたね」

目に浮かぶのは、いつか見たのと同じ執着。カブトは昔から私の肌が好きだった。覚えている。どんなふうに指でなぞり、手で包み、爪を立てるのか。皮膚にこびりついたその感覚は、透明の刺青のようにいまも残っている。

「帰って」
「冷たいね」

頬に伸びてきたカブトの手を反射的に弾いた。無意識の拒絶。カブトの目に驚きが浮かんだのを、見開いた私の目は見た。カブト以上に私が驚いた。二度目の拒絶。もう、しないはずだった拒絶のサイン。愛されたいなら、受け入れなきゃダメだよ、という言葉が頭をよぎった。私が言葉をいうまえに、頬に強い衝撃を受けた。頭がぐらりとして、次には視点がずいぶん低い位置になっていることに気が付く。カブトの足がこちらに近づいてくるのが見える。床に倒れたんだと、頬と床にぶつけた腰の痛みのなかで理解した。

「ジュリ、」

カブトを見上げれば、いままでの笑顔は消えていた。弾む声ではなかった。立ち上がろうと身をよじると、先にカブトが私に跨った。額が寄せられる。フローリングから感じる冷たさに総毛立った。「昔は、もっと物わかりもよかったのに、どうしたんだい?」と独り言のように問うた。抵抗する私の腕を片手でまとめあげると、もう片方の手が私の服をまさぐった。「やめて」と拒絶を声に出すと、もう一度頬に激痛が走った。ぐらぐらする視界のなかでカブトを見れば、胸の上まで服を捲し上げられた私を見下ろしていた。

「久しぶりに会ってみれば、肌を焼いたうえに、こんな痕までつけて―――」

肌は大切にしなきゃだめだろう、という声が耳元でした。