遊びはもうお終い



『いま、マンションの下まで来てるんだ』

何が楽しくてそんな弾んだ声が出せるんだろう、といつも思っていた。懐かしい声。聞きたくなかった声。思わず息を飲んだ。

『ベランダからでも見てみれば?手を振ってあげる』

そんなわけなかった。それでも、驚きで考えるよりも先に身体は動いていた。この人は、知るのが仕事だった。知らないことは探り出した。その気になれば、この人は私がどこにいようと見つけることができるかもしれない。それくらい、きっと簡単にやってしまう人だった。心臓が大きな音を立てるのを感じながら、ベランダからしたを見た。どこにも、声の主の姿はなかった。

「嘘つき」

低い声だった。この人の、人を手の平で転がすようなところが嫌いだった。それを分かっていて、この人は私を巧みに手中に収めいた。逃げだしたいのに、逃げられない。そんな私をいつも、笑っていた。そんな記憶を掘り起こすような笑い声がスピーカーから聞こえてきた。

『そうとも限らないよ。僕は、“君の”マンションの下にいるんだからね』
「それも嘘に決まってる」
『どうかな。まあ君には確かめる術はないよね。僕が本当にいるとしても、君は自分のマンションいないんだから。最近はろくに帰っていないようじゃないか。どこで寝泊まりしてるんだい?』
「関係ないでしょ」
『そんなことないさ。なんでも知っていないと気がすまない質なんだよ』

特に、君のことはね、と続いた言葉に悪寒がした。くらり、と視界が揺れた。

『どこの男のところに転がりこんでるか知らないけど、僕がその気になっていれば、直接な訪ねることだってできたんだ。そうしないのは、君は分かっていると思ってるからだよ』

君なら、どうするべきかわかってるよね。甘いささやきは、脅しだった。

「わからないって言ったら、どうするの」
『その男のことをあれこれ調べてもいいし、その男に君のことを色々教えてあげてもいいよ。君の行動次第で、僕の行動はどうにでもできる』
「…わかった」
『君が物わかりがよくて助かるよ』

くすくすと、心底楽しそうな声だった。鼓膜が揺さぶられた。電話が切れたあとも、耳のなかには、こびりついた笑い声が残った。











涙が乾ききったあと、彼の家を出た。帰ってくるまで待っているつもりは、まったくなかった。帰って来た彼と話せることはない。話したくなかった。話すよりも、話さずに消える方を選んだ。その方が、私の気持ちが楽だった。いつだって最悪なのは私。

あの人は、私の家を知っているのだろうか。はったりかもしれなかった。彼の本当に考えていることなんて、一度もわかったことがない。知っていても知らないふりをするのが上手いし、知らなくても知ってるかのように振る舞えた。

私のマンションがある最寄りの駅に着いたとき、あたりを見渡して、あの人の姿を探す。行きかうのは、みんな知らない人ばかり。マンションがある角を曲がるとき、その先にあの人の姿を想像した。エレベーターに乗る時、閉まりかけのドアに滑り込んでくるかもしれないと思った。部屋に向かう廊下を歩きながら扉の前にあの人が立ってる気がした。それくらい、やってのける人だった。それくらい、あの人のことは記憶に残っている。

でも、あの人の姿はどこにもなかった。はったりだったんだと胸をなで下ろした。最近は使っていないこの部屋の鍵を鞄から取り出して回す。扉を開ければ、彼の部屋とは違う、細くて短い廊下と小さな台所が目に入った。鍵を閉めるために振り返り、チェーンをかけた。サンダルのストラップを外すために、鞄を廊下に置いてかがめば、視界に黒い靴のつま先があった。また、心臓が強く鼓動した。

サンダルを脱ぎ捨てて、廊下を歩く。ワンルームのこの部屋の廊下と部屋を仕切る扉に近づけば、むき出しの足にかすかな冷気を感じた。扉の前に立つと、部屋からの冷たい風だとはっきりと分かった。何日も帰っていない部屋のエアコンがひとりでにつくわけはない。靴の主が付けたんだろう。なにもかも、はったりではなかった。

扉を開ければ、カーテンの隙間からの夕陽で部屋が赤く染まっていた。全身がひんやりと冷やされたのがわかった。それはエアコンの風か、悪寒か。小さな部屋の隅に置いたベッドに腰掛けた人と目が合い、そんなことはどうでもよくなった。お人よしそうに私を見て笑っているのは、靴の主で、声の主で、懐かしいあの人。

「おかえり」

楽しそうに弾んでいる声だった。ただいま、なんて返すわけがなかった。声を出そうとして、何を言うのか自分でも判断がつかなかった。

「…カブト」

やっと口からこぼれた名前で、本人は浮かべていた笑みを深くした。