届かず



静かに窓が開く音がした。腕に冷たい感触を感じた。彼の手。目を開けてそれを認めた。私と同じように素足でベランダに立つ彼に瞳をのぞき込まれる。視線を落とした先にある、私の足よりも大きい足。

「どうしたの」

彼の問いに答えないでいると、「とりあえず、なか入ろう」と彼に引かれるがままに部屋に戻る。リビングのテレビは消えていた。沈黙をエアコンのノイズが埋める。掴まれたままの腕は、まるで私の行動を制限しているようで、苛立ちを覚えた。

「…離してください」
「やだ」
「離してください」
「いやだよ」
「お願いだから、離してください」
「離したら、お前逃げるでしょ?」

腕を掴む力とは裏腹に、彼の声色は穏やかだった。それが余計に私の気持ちを逆撫でした。もう一度「離して!」と力いっぱいに怒鳴ったつもりが、声はほとんど震えた悲鳴だった。

「離せないよ」
「なんで―――?」
「だって、お前泣いてるんだもん」

その言葉に、また涙が零れた。彼が腕を離す代わりに、ごまかすように下を向いていた私を彼の手が持ち上げた。

「どうしたの」
「なんでもないです」

先ほどの同じ質問をされて、大嘘を吐いた。分かり切った下手な嘘。彼は「お前、嘘が下手すぎ」と力なく笑った。

「どうして、泣いてるの?」
「………」
「いまの電話、楽しい話じゃなかったんでしょ」
「………」
「…ねえ、何思って泣いてんの?」

穏やかな落ち着いた声だった。いつもと同じようで、いままでとは違っていた。それに気づいて、また涙が流れた。ガラス越しに目が合ったときから、彼の表情は少し歪んでいた。彼のそんな顔は見たことがなかった。ああ、きっと私がそうさせたんだ。私の涙が、彼をそんなふうにさせた。彼にそんな顔をしてほしくなかった。

一歩彼に近づき、掴まれていないほうの彼の肩に置いた。私はその肩が細いようで、骨ばってしっかりしていることを知っていた。そのまま引き寄せた。口づけをした。触れるだけのキス。離れ際に目を開けば、彼の顔には何も浮かんでいなかった。その表情のほうが歪んだそれよりずっと良かった。

「カカシさん」

いままであまり呼んでこなかったのに、その気になれば不思議なくらいに簡単に呼べた。名前を呼べば、それが当たり前になってしまうと思っていた。名前を呼べば、それに情が湧くような気がしていた。彼に名前を呼ぶように強いられないことをいいことに、私はなるべく彼を名前で呼ぶことを避けてきた。だって、私は知っていた。彼はいつだって名前を呼べばそれに答えてくれていた。だからこそ避けてきた。

「なあに」

いまも、彼は返事をくれる。もう一度キスをする。唇を軽く齧れば、彼は少し口を開けた。舌を絡めた。コーヒーの味がした。床に零れてしまったコーヒーを思った。

「…カカシ、さん」

激しいかといえば、決して息の上がるようなものではなかった。彼の手は私の腕を掴むことを止めていた。自由な両手で彼のTシャツを掴んだ。そのあとは簡単だった。彼は一度も、私を止めなかった。彼のシャツのなかに手を入れたときも、ソファーに押し座らせたときも、私が上に跨いだときも、彼のズボンに手を掛けたときも。彼はただそこにいただけ。私が始めて、私が終わらせた。





「…お前には聞きたいことがあるんだけどね。仕事行かなきゃいけないから、俺が帰ってくるまで待ってて」

スーツに着替えた彼リビングの入り口からいった。あまりにも普段通りの声色で、まるで行為などなかったようだった。私は、雑に着直した服を握ってソファーで泣いていた。自分で始めた行為のあとに来たのは虚しさだった。いままで、さんざん彼を自分勝手だと心のどこかで思ってきたけれど、最悪なのは私のほうだった。

「いってくるから」

彼は一度歩み寄って私の頭を撫でた。出ていく彼の姿を見る気はなかった。玄関のドアが閉まる音が響いた。押し寄せてきたのは静寂。

結局、名前を呼べば答えてくれる彼に甘え、仕掛ければ拒まない彼に甘えた。涙の意味を、言えなかった。

「カカシさんを、想って泣いたんです」

閉ざされた部屋でつぶやいた言葉は、誰にも届かない。コーヒーとマグの破片は、まだそこにいた。