ひとつ、落ちた



彼のあとにシャワーを浴びた。鏡を見れば、胸元にはまだ彼が付けた痕が残っていた。いつ消えるのだろうか。最後にもう一度一瞥して服を着た。リビングに入ると、コーヒーの匂いがした。入り口のすぐ右手にあるキッチンを見れば、彼がメーカーでコーヒーを淹れていた。彼がキッチンに立っているところを見たことがなかったので、珍しいと思いじっと観察してしまう。普段ほとんど使われていないようだったキッチンだけれど、彼は慣れた手つきだった。

「俺がキッチンにいるのが珍しい?」

コーヒーメーカーを見たまま彼が言った。「いえ」と形だけの否定をする。「どうだかねえ」と、彼が意味ありげな視線を投げてきた。

そのとき、寝室から電子音が響いた。私の携帯の着信音。部屋に急ぎ足で向かい、いまだにベッドの上に転がったままの携帯を手に取れば、画面に名前が表示されていた。大学の後輩だった。「もしもし」と出れば、律儀に名乗る彼女。夏季休暇が明ける前に決めなければいけない講義の相談だった。彼女の声の後ろから、もう一つ知った声が聞こえた。声を張りその声の主を怒る彼女。電話越しでも、その光景は簡単に想像できた。思わず笑うと、笑いごとじゃないと私まで怒られてしまった。それもまた、おかしくて笑ってしまう。

笑いを堪えて、3年前の記憶を思い返し、講義の特徴やどんな先生かを話せば、彼女は熱心に聞いてくれた。可愛らしい後輩だな、と思う。素直で熱心。大学が始まったら改めてお昼を食べる約束をして、電話を切った。

「そっか、お前大学生なんだよね」

寝室の入り口に立っていた彼は、電話に向かって話す内容を聞いていたようだった。その両手にはマグが握られていた。

「そうですよ?」

今さら何を言っているんだろうと、首を捻った。彼は私がいくつでどの大学に通っているかは知っている。

「たまに、お前が学生だってこと忘れそうになるよ」
「まあ、あと半年ですけど」

「なら、卒論が大変だね」という彼に近づき、持っているマグの片方に手を伸ばした。知らぬ間にこの部屋に置かれていて、いつからか自分の物のように使っていた、そのマグ。しかし、それを受け取ろうとしても、渡してもらえない。

「誰もお前の分だなんて言ってないよ」
「ひとりで二杯飲むんですか?」
「あ、それもそうだね」

意味のないやり取りのすえ、彼からマグをもらった。鼻を近づければ、ふわりとコーヒーの深い香りがした。

彼の横を通りながらそれを一口飲み、テレビを付ける。リビングの床に座り、ニュース番組にチャンネルを合わせた。私の後をついてきた彼はソファーに座った。

天気予報のコーナーを待ちながら、ぼんやりと画面に目をやる。外国の警察の不祥事に対するデモ、最近発表された新薬の解説、映画俳優のスキャンダル。重大なことでも、くだらないことでも、関わりを見出せないとどれも同じで、無意味な事象になってしまう。

ちょうど天気のコーナーになったとき、ポケットに入れていた携帯が鳴った。マグをテーブルに置き意識をテレビに向けたまま、携帯を耳に当てる。応答がなかった。もう一度「もしもし」と言う。先ほどの後輩か誰かだと思って出たけれど、表示は確認しなかったのでわからない。

『ジュリ?』

電話の主を確認しようと携帯を耳から離しかけたとき、耳に聞き覚えのある声が届いた。一瞬、心臓が強く鼓動した。慌てて立ち上がる。テーブルに足が当たったのも無視して、そのまま駆けるようにベランダに出る。後手で閉めて、手すりから身を乗り出し、マンションの下を見た。思わず言葉が漏れた。耳に笑い声が響いた。残暑の空気が肌を撫でた。それなのに、悪寒がした。声が紡ぐ一言、一言が頭の中で渦を巻いた。携帯を耳から離したあとも、会話の終了を知らせる電子音に混じって、声が聞こえる気がした。

ベランダの手すりに寄りかかり、目をつぶった。気持ちが悪かった。どのくらいそうしてたかわからない。数秒かもしれないし、数十分かもしれない。耳に子供の声が聞こえ、肌に汗ばみを感じたとき、やっと瞼を開けた。ベランダに置かれたサンダルを履いていない素足が視界に入った。前を見れば、ガラスの向こうに彼が立っていた。

「―――」

口から出た言葉は彼の耳には届かない。向かい合ったのが透明のガラス越しでよかったと、心底思った。彼は相変わらず、そこにいて、私を見ていた。ふだんの無関心なそれでも、退屈そうなそれでも、諦めたようなそれでもない。たまに見せる、見透かしたようなそれでも、責めるようなそれでも、追い詰めるようなそれでもない。狂気も執着もない。

どうしたら良いかわからなかった。彼のその瞳から逃げたかった。視線を逸らせば、彼の肩越しにあるフローリングに広がったコーヒーの黒と割れたマグが見えた。立ち上がったときに足をぶつけた拍子に落ちたのかもしれない。物悲しくなった。見たくないものを見ないために瞼を閉じた。その拍子に、涙が一粒頬を伝った。