鼻のさきとほっぺのてっぺん。あごの下めいっぱいに引き上げた布団からはみ出した顔が、ひやりと冷気になでられる。寝る前に見たニュースは、夜中から降り始める雪は朝まで降り続けると考えられ、朝の通勤通学に影響を及ぼすでしょう、お出かけの際は足下に注意して早めの出発を心がけてくださいと言っていた。

学生アパートは、冷気の侵入を防ぐつもりはないらしい。ロングサイズのベッドはワンルームの部屋を少しでも広く見せるために窓際に寄せられているけれど、やっぱり普通のシングルサイズに比べれば存在感があった。それは、持ち主の都合だから仕方ないけれど。初めてケイの部屋に泊まった夜、ベッドに潜り込んだ私は窓と向き合って端にいたら、そんなに気を使わなくてもいいんですよ、と横に眠るケイに背中越しに言われたことがある。口べたなのに気の回る彼だから、きっと私が背ことがケイのために少しでもスペースを作ってるって考えに至ったのかもしれない。

そのとき私は背中を向けたまま、端っこ好きなんだ、と答えて、すると、そうですかという返しが来て、それでその件は落ち着いたと思ったら、またしばらくして、こっち向いてくれませんか、といつも余裕ありありのケイには似合わない声色で言われた。この子は大きい身体して実はすこしさみしがり屋なのかもしれない。

私は寝たふりをした。待てど暮らせど何も返ってこないことにしびれを切らしたのか、ケイは私の背中に自分の広くて固い胸を重ねた。そっと絡められた指は男の子にしては繊細で、淡泊な性格に合わせてひんやりしていた。でも、手が冷たいひとは、心が暖かいと言うから。

「なんだ、起きてるんですか」
「うん」

そんな秋口の始まりの夜の出来事を思い出していると気配がして首だけ回すと、スウェット姿で素足にスリッパを履いたケイと目が合った。起きてる私にちょっと驚いてるようで、大きな目が丸くなってた。

「十時ですけど、二度寝するんですか」
「ううん」
「起きないんですか」
「う〜ん」
「…起きてくださいよ」
「だって、寒い」
「外、雪積もってました」
「通りで。部屋がいつもより冷えてる」
「窓側だと冷気が入ってくるから、余計にそう感じるんですよ」

暖房つけたんで、もう少ししたら部屋暖かくなるはずです、と淡々と語る薄着のケイは、日焼け知らずの白い肌との相乗効果ですごく寒そうに見えた。

「ケイは寒くないの」
「寒いですよ」
「寒そうに見えないよ」
「まあ。寒いのには慣れてるんで」
「へえ」
「はい」
「あれ、出身どこだっけ?」
「…宮城です」
「あ、そうそう」

ケイを紹介してもらったとき、確かに宮城出身って言われた気がする。忘れちゃってた、と素直に言うと、ケイは表情を作らないまま、だってなまえさん僕に興味ないでしょう、と言った。

「そんなことない」

興味なかったらここにいないよ、と続ける。ケイは何も言わずに私をじっとめがね越しに見下ろした。何か言いたそうなのに、結局口は開かなかった。

「いい匂い。朝食作ってくれたの?」
「朝食というか、もうブランチの時間ですけど」
「ごめん寝すぎた。準備ありがとう」
「…、昨日のなまえさんのシチュー、温め直しただけです」

それとトーストにヨーグルト、もう一度寝るならなまえさんの分取っときます、とキッチンに消えてくケイの背中は大きいのに弱々しかった。ううん食べるよ、と起き上がって廊下にあるキッチンまで追いかける。

「…火の近く、危ないですよ」

シチューを温め直すためにガスコンロの前に立つその背中にくっついてお腹に手を回すと、相変わらず冷たい手が重ねられた。

「廊下、寒いんだもん」

本当はケイの後ろ姿がもの悲しそうに見えたからだけど、そんなふうに答えたらきっと、何言ってるんですか、って得意のよそ行きの笑顔でケイは答える。

「部屋で待っててください」
「う〜ん」
「ちょっと。聞いてます?」
「聞いてない」

おでこをケイの背中にぐりぐり押しつける。

「テーブルの用意してください」
「うん」
「食器は出してあるんで、スプーン出してください」
「は〜い」

ケイの背中から離れて、食器棚の引き出しを開ける。彼らしく、引き出しの中はお箸、フォーク、スプーン、ナイフ、分けて整理されてる。シチュー用に、仕切りのなかで重なり合った大きい黄色のストライプのスプーンを二本掴んでから、ヨーグルトもあると思い出して隣に重なった小さい黄色のドット柄のスプーンも取り出す。セットのカトラリーを買うときに、この色を選んだのはケイだった。

ローテーブルにスプーンを並べてると、ケイがシチューの入ったボウルを持ってきた。それを置くとすぐにまた引き返すから私もついて行こうとすると、座って待っててください、と言われる。大人しく私は定位置となった場所に座った。すぐに、トーストとヨーグルトもやって来て、ケイも向かいに座った。いただきます、手を合わせてから二人で食べ始める。

「シチュー、あったまる」
「そうですね」
「今日どうしよっか」
「寒いですし、家にいましょうか。なまえさんが見たいって言ってた映画、配信はじまってると思いますよ」
「そうなんだ、見たい」

でもそれ今日じゃなくてもいいかも、トーストをかじりながら言うと、ケイは不思議そうな顔をした。

「せっかく雪積もってるんだし、そと出てみよう?」
「なまえさん、寒いの嫌いでしょう」
「好きではないけど」
「だったら出かけるのは、今日じゃなくても…」
「雪の上の歩き方教えてよ?」

なんかコツあるんでしょう、テレビで言ってた、そう言うと、ちょっと表情を堅くして、コツってほどじゃないです、と返された。

「それでもいいよ。だから、ね?」
「だとして、どこ行くんですか」
「うーん、じゃあスーパーは?シチュー作るので、野菜使っちゃったから」
「わかりました」

会話もそこそこに朝食を食べ終わって食器を片付けるときになって、自分で出したのに大きな方のスプーンを使ってないことに気がつく。今日、用意はケイがしてくれたから、洗い物は私が担当する。水切りラックに、洗ったものをどんどん置いていく。三本のスプーンは、小さい方の二本の間にケイが使った大きなのを入れた。

狭い洗面所で二人そろって歯磨きをして、私はその後顔を洗って髪の毛も整える。部屋着から着替えて、簡単に化粧もする。

「お待たせ」
「いえ」

お互いにコートを着て、私はマフラーも手袋もする。その間にケイはいじってたノートパソコンの電源を切った。

「あ」

玄関に向かう途中で、キッチンのワークトップに使わないできれいなままのスプーンが一本出しっ放しだったのを見つけて、それをしまってから玄関で靴を履く。

「それしかないんですよね」
「靴?」
「うん。これで来たから」

私のムートンブーツを見るケイ。首をかしげるけれど、なんでもないです、と言われた。

「うわ…」

アパートの前で立ち止まって、驚く。足元が埋まるくらいに厚い雪が、道路にも、建物の屋根にも積もってる。ケイは私の隣に立って、スーパーどうしますか?と、駅前の近いのと、歩くけどお買い得品が多いのとどっちか聞いてきた。遠い方を答えると、わかりましたとそっちに向かって足を進める。

「あんな時間に食べたからお昼入らないね」
「そうですね」
「夜ご飯、どうしようか」
「身体、温まるものがいいんじゃないですか」
「お鍋?」
「うち、土鍋ないですよ」
「普通のお鍋じゃだめかな」
「いいんじゃないですか」

お箸で食べるものが食べたくなった。何味にしようかと話してると、足が滑って、そうそう雪の歩き方を教えてと言ったら、ゆっくり小股で歩くだけですと返されてしまう。それだけ、と思ったけれど、いつも以上に歩幅を合わせてくれるケイのおかげで、その後、雪に足を取られることはなかった。

スーパーで二人分の野菜と豚肉とお鍋の素を買って、店を出る。そのころには、雪の中を歩いたムートンはしめって靴下まで水分を含み始めてた。

「だから言ったんですよ」

しめったところだけ色が変わったムートンを見下ろしてケイが言う。靴のこと聞かれただけで何も言われてないよ、と思う。けれど私は何も言わず、スーパーの袋を持ってくれているケイもそれ以上は何も言わなかった。途中コンビニに寄って二つセットのケーキを買って家に帰った。

ケイがシャワーをつけてくれて、私はぬれた足をお湯につけて温めた。それから、お昼のテレビ番組を見て、ケイは雑誌を読んで、夕方早い時間に二人でケーキを食べた。何でもないことを少し話して、今度は私は勉強をして、ケイはパソコンをいじったり本を開いたりして、日が暮れたころに、鍋の準備を二人でした。煮えるまでテレビを見て、夜ご飯を食べて、交代でお風呂に入って、映画を見て、またベッドに入った。洗われた夕ご飯の食器たちに場所を奪われたスプーンは、引き出しにまた頭を重ねて同じサイズ同士で重なり合った。その夜、私はいつものように窓を向いたけれど、入る込む冷気に負けて反対側に寝返った。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

向き合って寝たのは初めてだった。