俺は面倒くさいやつに進んで絡む傾向があるのかもしれない。いやむしろ、厄介そうな奴を敢えて選んで近くに置こうとする節すらある。思い返せば研磨にしろ月島にしろ、俺はどやら手間のかかるやつほど構いたくなる質らしい。

「テツロ―、おつかれ。先始めちゃいました」

金曜日の夜。小一時間遅れで約束した居酒屋についた。店員の案内に従って個室の扉を開ければ、ビールジョッキを手にしたなまえがいた。

大学一年の前期の授業でのグループワークをきっかけに、学食を一緒に食べるようになり、試験の前は図書館で勉強し、就活もともに生き抜いた。知り合いたての黒尾くん呼びはいつしかテツロー呼びにたどり着いてた。大学を卒業したあともお互い東京勤務ってのもあってか、仕事終わりに時間が合えば飲んだりしてる。社会人四年目、知り合って八年が経ってた。

「わりい。仕事長引いた」
「いいのいいの、早く座って。何飲む?」
「ビールで」
「はーい」

向かいの席に座ってジャケットを脱ぎながら答えると、なまえはボタンで店員を呼び俺のビールと、いくつか料理を注文した。そう待たずしてビールが来て、お疲れさん、お疲れさまーと、ビールのジョッキをぶつけ合う。このために頑張った!と嬉しそうに目をつぶってすでに半分なくなってるビールを飲むなまえを俺は冷静に観察する。

良い飲みっぷりだな、失恋したとは思えないほど元気だ。ファジーネーブル2杯が限界だったころのなまえを知ってるから、俺もこいつも年食ったと嫌でも実感する。運ばれてきたサラダやら焼き鳥やらを食べつつお互いの近況報告。主に仕事について。途中酒を追加して、最近見た映画の話やらおすすめのアプリやらどうでもいい事についてあーだこーだ話をする。そうしてる間にメインの鍋が運ばれてきた。ガスコンロを置くために店員が空いた皿を片付け、鍋を火に掛けながらこの店ならではのこだわりの食べ方の説明を聞き、自分の日本酒となまえの梅酒ソーダ割をついでに頼む。お互い何をあんなにも盛り上がっていたのか忘れてしまう。ぐつぐつと、煮える音が俺たちの沈黙を埋める。そろそろ良いころだろ。

「で、別れたんだって?」
「あー、うん」

今まで饒舌だったなまえは気まずそうに言い淀んで、運ばれてきたソーダ割に口を付けてから店員が説明した具合に食べごろの鍋を俺と自分の分をよそった。サンキュ、と受け取ってモツとキャベツを一緒に食べる。確かにうまい。なまえは自分の器に箸を付けることなくテーブルに置くと、はあ、と息を吐いてからわざわざ佇まいを正して話し始めた。

「メールした通り、別れました」
「おお」
「でさ、私彼のこと結構本気で好きだったんだよね」

なまえが彼と呼ぶ男のことは、なまえの会社の先輩の大学時代の友人で、出版関係の仕事をしてる男。写真を見せられたことがあるから、顔も何となく知ってる。

「別れたって、振られたわけ?」
「いや、振った」
「好きだったのに、振ったのかよ」

ったくこいつは。

「それ、友達にも言われた」
「そりゃ、そう思うだろうな誰だって」

率直な感想を言えば、だよねーとから笑いが返ってくる。こりゃダメージ受けてんな。

「てかお前、ついこないだ『今度の一年半記念、すっごい綺麗な夜景のとこでディナーなんだ』って超浮かれてたじゃねーか」
「うん」
「そのあとすぐに振ったわけだ」
「…というか、記念日に振った」
「は」
「だからみんなと同じ反応するのやめて」

思わず箸を置いて向かいのなまえを凝視する。「彼」くんは、女が言うとこの「優良物件」ってやつにドンピシャな男だったように思う。それをよりによって記念日に振るとは。普通そんな話を聞いたら誰だってなまえの性格を疑うし、そんな仕打ちするとか鬼かくらい言われても非難できない。

が、俺はそれなりに大学からなまえを知ってる。

「…で、どうしてわざわざ記念日なんだよ」
「彼がね、結婚を前提に同棲しないかって」
「………は、」
「だから、将来的には結婚を考えてるから同棲しようって言われたの」
「…で、振ったと」
「そう、振ったの」

弱ってるくせに髪をかき上げて挑戦的に俺を見るなまえの虚勢に、呆れ笑いが出る。半端に自尊心も独立心もあるが女である事も心得てる。だから男からモテるし、実際男のツボをしっかり分かってるのに、最後は自滅する。

「まあ、ようは逃げたんだろ」
「…そりゃ逃げるよ、あんな良いひとにプロポーズまがいのことされちゃあ」

それなりにプライドのあるなまえだから逃げたなんて言い方すれば噛みついてくるかと思ったが、それをする元気はないらしい。

「なあ、しょぼりんちゃん」
「…なにその呼び方」
「だってお前、超テンション低いじゃん」
「そんなことな―――」
「あるだろ、フツ―に。好きな男と一年半付き合って記念日に振って、それだけで割とダメージなのに、友達に話せばめちゃくちゃに言われるし、そいつのこと紹介してくれた先輩には申し訳ねえって思うし。実際んとこ自分がわりいって自覚はあるけど、誰ひとり味方になってくれる人いねえのは辛いだろ。そんなの、落ち込むしかねえじゃん」

そう言って鍋をよそうと、向かいではなまえがじっと俺のことを見てる。

「なんだよ、違うのか?」
「いや、合ってる。ていうか、合い過ぎてびっくりしてる」

あんた読心術でもできんの、と言いながらなまえも鍋のお代わりを掬って食べ始めた。

「軽口たたく元気はあんだな」
「というかいま元気出た。少なくともテツロ―は私のこと分かってるみたいだから」
「…おお、」

テツロ―は私の味方でいてくれるでしょって一転吹っ切れたようにニッと笑うなまえに、俺がぎくしゃくしちまう。くそ。

「でも、このままだとなまえちゃんは一人で死ぬ事になるなー」
「うっわー、次の瞬間には的確に私の不安をつくんだ」

知り合って何年経ってると思ってんだ。大学時代、それより前の人間関係の名残か反省だかで、いろんな男と時期が重なる事はないけど途切れることもなく付き合ったり時には付き合わずにオアソビしてたのも知ってる。社会人になってすぐの頃は大人のツキアイを始めて、それにも懲りてちゃんとした交際をし始めたのも見てる。知り合った当時と比べれば、すげーマシになってる。でも、いつだって過去の自分に負い目を感じてるから、どうしても最後には自分からぶち壊しに掛かる。今回みたいに良い男からのポロポーズまがいの申し出に、自分にはそんな価値ないんだって逃げる。そのくせ、人並みに幸せになりたいと思ってるから、厄介だ。

「でも今回のことで思ったのはさ、私も結婚できる年なんだなって」
「そりゃ四捨五入したら三十だしな、いつ結婚したっておかしくねえだろ」
「それやめて!しかも、そんなこといったらテツロ―だってそうじゃん」
「俺は男だからな。マダスコシ余裕アルンデス」

でたその嘘くさい口調!とけらけら笑うなまえを見て、もうこいつ大丈夫だって思う。鍋もほぼほぼ食べつくし、〆の麺を運んできた店員に酒のお代わりを頼む。麺が煮えるのをぼんやり見てるなまえは少し酔い始めてるらしい。

「ところで、テツロ―はあの女の子とはどうなの?」
「どの子?」
「ほら、取引先の事務の子だっけ?ボブで、胸大きい!」
「ソンナコモイマシタネ」

誤魔化しは駄目ですと言いながら、食べごろの麺を明らかに俺の器に多くよそったなまえ。

「召し上がれ」
「…サンキュ」
「で、なにボブちゃんと終わっちゃったの?」

聞こえないとでもいう様に音を立てて麺をすする。が、少し酔ってるなまえはねえねえとしつこく聞いてくる。

「まあ、振られた訳ですよね」
「え、そうなの?」
「おー」
「いつ?」
「二か月くらい前?」
「聞いてない!」
「言ってねえからな」
「ひどーい。そして別れんの早くない?」
「俺じゃダメなんですって」

実際のとこ、始まってすらない。連絡先聞かれてまあ正直見た目タイプだから教えて、何回か飯行って好きだと言われて断ってそれでもって言われてまた何回か食事行って流れで何回かヤッて、振られた。付き合ってないのに振られるとか意味分かんねえ。

へえ、と聞きながらなまえは麺をすすると、テツロ―いい男だと思うなんだけどねえと首を傾げる。

「あ?」
「いやー、こんな私が言うのもアレだけど、テツロ―ってかっこいいし面倒見いいのに、いっつも女運ないね」

至極不思議そうに言うなまえに俺は何も返せなくなる。ぐっと奥歯を噛みしめる俺のことなどお構いなしに、なまえは氷が解けかけたグラスを傾けながら、あーだこーだ俺について話始める。




「テツロ―くん、ごちそうさまでしたー!」

飲んで食って話して元気になってすっかりご陽気ななまえのタクシーを探す。頼りない足首で細いヒールを操るもんだから、転ばない様に腕を掴んでやる。

「ほらー、そういうとこ!ちゃんと優しいのにねえテツロ―は」
「……おお」
「なに元気なくない?どうしたの?飲み過ぎた?」
「いや、ヘーキ」

そう笑っても隣にいるなまえは納得してないようでこっちをじっと見上げてくる。しばらく考えたあと、嬉々とした顔で宣言する。

「大丈夫だよ、テツロ―は!」
「は?」
「ボブちゃんには、振られちゃったかもしれないけど、絶対いつかいい彼女出来るから大丈夫!」
「………」
「いろんな男見てきた女が言うんだから、ほんとだよ。テツロ―いつもニヤニヤひょうひょうとした態度で嘘かほんとか分かんないようなことばっかしか言わないけど、そーゆーと引っ込めればすーっぐ女の子の一人や二人ゲットできるから」

…二人もいらねえんだけど。こっちの気をしらない奴の言うことは怖い。

あ、タクシーきた!テツロ―は地下鉄だっけ?と聞いてくるなまえがタクシーに乗り込むのを支えながら頷く。右手はまだなまえの腕を握ってる。左手をタクシーのルーフに置いて背を曲げてなまえを見る。なまえはシートに座ってるから、いつも以上に俺を見上げてくる。じゃあ、またね、そう言うなまえは俺の背中の陰に入ってて、ほとんど暗いなかで酒のせいか潤んだ目だけが僅かな光を全部集めてるみたいに輝いてはっきり見えた。

そんなことするなんて直前まで考えてなかった。が、その目を見た瞬間そうしてやろうと思い立った。二の腕を離すとそのままなまえの顎に手を置いて、さらに身をかがめてキスをする。なまえは目をつぶらねえし、こっちは一瞬も見逃するもりがないから、ずっと目が合ったまま。

「…好きだ」

唇を離して鼻が触れそうな距離で言う。そこで、なまえの視線が泳いだ。

「……え、」
「じゃあ、お休み」

身を引けばタクシーの扉は閉まり走り出した。走り去るそのタクシーを見ながら、さっきなまえの顎を上げてたその右手で口角を触る。微塵にも上がってない。キスしてやろうと思い立ったときには、自分の思いつきにニヤけねえようにしようと思ったが、実際行動に移す瞬間からは余裕な振りした笑いなんかできるわけもなかった。

…当たり前だろ、八年越しだったんだ。