“数週間ぶりに会う彼女は、何故だかひどく歪んだ表情だった―――。”

と、とぼけるのはたやすいが、生憎俺の頭はきちんと記憶する機能が備わっているし、点と点を分析しながら線でつなげ次に来る点に予想を立てる事に長けている。だから、最後に彼女と会ってから3週間と5日ぶりだということはカレンダーを見ずとも分かっていたし、彼女がそんなにも悲愴感漂う表情を浮かべている原因が俺であることは絶対と断言できるほど明らかだった。
彼女と最後に会ってから、抱えていた案件のいくつかが互いに反応して俺の望まない方向に傾き始めたのでそれらを調整し、同時に飛び込んできた新規の案件をさばき切るのに5日。その時、彼女としばらく連絡をとっていないと気づき、その期間触れることのなかったプライベート用の携帯を開いた。彼女からの連絡はいつもこの携帯でしているので、彼女の方から連絡が入るとしたらこの携帯だけれど、彼女の名前からの着信もメールもなかった。便りがないのは良い知らせだと思い携帯を閉じ、新宿に人間観察に出た。大して面白い人間も出来事も見つけられないまま帰宅した。とりわけ忙しかった反動で時間を持て余し、プライベート用携帯を再び開いたのはそのの夜だった。けれどやはり彼女からの連絡はなかったので、『今晩、食事をしようか』と珍しく自分から誘いのメールを送った。ほどなくして、ネットサーフィンをしていた俺の元に返って来たのが『今日は会社の人達と飲むから無理』というメールだった。だったらと、携帯を閉じパソコンと向き合い掲示板の投稿を始めた。その翌日の夕方、お得意先から緊急の依頼が飛び込んできたのをきっかけにまた忙しくなり始め、それがあらかた落ち着いたがついさっき。
ネットニュースで俺が関わった案件の余波を楽しんでいたところに、仕事用の携帯のうちの一つに着信があった。なり続ける着信音を聞きながら発信元を確認すれば、登録されていない番号だった。番号を見て視線が細くなる。番号が登録されていないのは、新規のお客からの依頼だからか、この携帯には掛けてはいけないと知りながら番号を知っている人物からの電話だからだ。見覚えのあるその番号は後者だった。番号は心当たりがあった。4コール目で、ため息をついてから通話ボタンを押した。

「…仕事用には掛けてこないでって、言ったよね」
『………ごめん』
「で、なに。用がないなら切るよ」
『いま、…エントランスまで来てるんだけど、上がってもいい?』
「アポなしで来られるの、俺が嫌だってことくらいなまえも知ってるよね」
「ごめん…。やっぱ、帰る」
「もうそこいるんでしょ、上がって来な」

一方で俺はいつだってアポなしに彼女の前に姿を現すということは棚上げであることを両者理解している。俺は短く承諾の言葉を告げ電話を切り、エントランスを開ける操作を行う。彼女はここの扉の合鍵は持っているので迎え入れる必要もないと、彼女からの電話によって中断された作業に戻った。しばらくして玄関が開く音がして、部屋に自分以外の存在があることを感じた。ちょうど、主要な報道機関が語る内容とは、切り口を変えた記事を見つけた。彼女が俺のいるデスクに近づいてきたのを意識の片隅で感じながら、記事を読み進める。すぐに彼女の気配が遠のき、申し訳程度に音を立てて階段を上がりそれから戻って来た彼女が俺の視界の端でリビングルームから消えるのを捉えた。
関連記事まで一通り読み終えたところで、シャワー音がし始めた。時計を見ると深夜2時になろうとしているところだった。さしづめ、終電を逃したので一晩泊まる場所が必要だったんだろう、と結論づける。時間を知ると急に何とも言い難い倦怠感が襲ってきた。それもそうだ、忙しいなかでもファストフードやら出来合いの総菜を食べるのは耐えがたいので時間ができたときに知り合いのシェフのところで食べる物に口をつけ、あれこれと考え分析し思いめぐらせ検証し続けた頭は常時より変に覚醒し続けてつまむ程度でした取れていない睡眠の反動。

「……なに」

パソコンをシャットダウンし、この後どうしたものかと、今度は携帯の小さなスクリーンに目を走らせながら考える。シャワーの音がドライヤーの音に代わり、とりあえずシャワーを浴びようかと思っていたところで、近づいてくる気配を感じて視線を上げると、悲しさと悔しさと怒りと虚しさを彼女独特の割合で混ぜた表情をして、俺の座るデスクの前に立っていた。こういうシンプルに形容できない感情をたたえている時の彼女が普段にもまして面倒なことは観察上も経験上も知っていた。生憎俺のいまの疲労感ではそれをうまいようにあしらう自信がなく、ほんの数秒迷ったのちに口から出たのはたった二文字だった。

「なに、じゃなくてさあ…」
「じゃあ、なんなの」
「分かるでしょ、私が言いたいこと」
「分かってたら質問なんてしないよね、わざわざ」
「…メール」
「は?」
「だから、メール!何で返信くれないの!」
「いつから、そんな面倒くさい女になったの」

どうしてこんな近い距離で大声を上げるのか。耳から入った彼女の声を、俺の脳みそはどこかで勝手に音量を上げたようで実際以上にうるさく聞こえた。こっちは寝不足なんだから、勘弁してくれ。俺がこぼした言葉に彼女は始めから寄せていた眉をさらに寄せて文字通りハの字を描いた。これは泣く手前だ、と分かってこれ以上のヒステリーはごめんだと、引き出しにしまっていたプライベート用の携帯を手に伸ばす。ディスプレイを開くと新着メールのお知らせが10件。俺にプライベート用の携帯で連絡するなんて、彼女か新羅くらいだし、新羅は半分仕事上の付き合いでもあるからこっちに連絡することは多くない。受信フォルダを開くと、そこは彼女からのメールで埋まっていて、いまだ俺の前に立っている彼女を見てげんなりした。本当に、面倒くさい女になり下がっている。それが視線で伝わってしまう前に視線を戻し、最新のメールを開いた。受信時間は時間は3時間半ほど前の22時22分。件名は“今日は”から始まり、画像が2枚添付されている。

“仕事終わりに、同僚たちが誕生日を祝ってくれました”

画像は彼女の名前がチョコレートとフルーツソースで書かれたケーキを真上から取ったものと、そのケーキを囲む女たちのものだった。真ん中でケーキの乗った皿を写真に良く映るように傾けて持つ彼女は、いまとは大違いな馬鹿でかい間抜けな笑みを浮かべていた。ただ、それよりも気になったのが彼女を囲む同僚であろう女たちだった。彼女がこういうタイプの女と交友関係にあるのは、少し考えものだ。

「誕生日おめでとう、とでも言って欲しいの?」
「…なっ、祝う気持ちのない人から言って欲しくない」
「そう。まあ、どっちにしても、もう日にち跨いじゃったしね」

そもそも日にちなんて人間が勝手に365日って区切って時間を計ってるだけで本来は区切りのない連続でしかないけどね、そう言おうとしたけれど気力のなさと彼女の表情でとどまった。代わりに、もう一度同じ引き出しを開けて、箱を取り出し静かにデスクの上に置く。

「嘘嘘。祝う気持ちくらい俺にもあるって。はい、プレゼント」

面倒くさい女は現金な奴らばかりだから、彼女ももれなくころりと機嫌を直すと期待したがそれに反し、彼女は包装も開けないままプレゼントには目もくれず、俺を見続けた。これで機嫌が直らないなんて、いよいよ面倒くさい女だ。俺はお手上げだと暗に示すためため息を吐いて立ち上がり彼女の横を通り過ぎた。彼女を構うには疲れすぎてる。シャワーを浴びたかった。

俺が部屋に戻ったころには彼女はそこにいなかった。いつもより熱めで浴びたシャワーは、俺の染み着いた緊張感をわずかながら和らげた。寝室を覗けば、彼女はベッドの隅っこに丸くなっていた。ベッドに腰かけて彼女を覗き込むと、彼女は俺が渡したプレゼントを握って寝ていた。涙の痕がいやでも目についた。先ほどよりも幾分、緩慢ながらも正常に働く思考で考えて、泣かしたのは俺だと認識する。俺は音を立てないように階下に行き、もう一度プライベート用の携帯を手に取った。先ほどとは1件減って、9件の新着メール。今度は古い方から目を通す。

“今週どっかで、会える?一緒に食事しよう”
“週末そっち泊まっていい?”
“今日静雄くんと会ったよ。池袋で迷ってたら助けてくれた!相変わらず、良い人だった。誰かさんと違って(笑)”
“おーい。無視すんなー”
“仕事忙しいのかな?無理はしないでね”
“返信ないってことは、携帯見れないくらい忙しいんだね。不用意に人のこと貶めちゃだめだよ”
“ちゃんと寝てる?食事後回しにしちゃだめだよ”
“こんなに連絡ないと、心配です。トラブルに巻き込まれてない?大丈夫?”
“生きてたら、空メールでもいいから返信してください”

ああ、なるほど。俺はそっと携帯を閉じるとも寝室に戻りベッドに滑り込む。起こすかもしれないとも危惧したが、それよりも彼女の熱を感じたくて背を向けの彼女を後ろから抱きしめた。もぞもぞと身じろぎした彼女は、まだ深い眠りではなかったようで、小さな声で「…いざ、や?」と呟いた。

「悪かったよ」
「…メール、読んだ?」
「うん」
「あのね、私、誕生日とか、どうでも良かったの」
「うん」
「でも、3週間も会えないのはちょっと辛い…」

寝ぼけながらに気持ちを吐露するが、「ちょっと辛い」と言う彼女はまだまだ俺に甘い。その程度じゃあんな表情にはならない。彼女は俺がどんな人間なのかも、日ごろからどんな輩と付き合いがあるかも、分かってる。分かっていてこうして俺と会い続けている。だから、連絡が取れなくなることがあることも分かっている。彼女が俺の所有する携帯番号を全部は知らないことも、マンションのエントランスの暗証番号を教えてないのも、俺の保身でもあり彼女の安全のためでもある。だけれど、彼女にしてみたら、俺の取り巻く環境の危うさそれ自体ではなく、そこに身を置くことを自ら選択した俺の安否が彼女を時として不安にするらしい。確かに、思い返せば3週間以上直接合わないにせよ、メール一往復すらしなかったのは初めてだ。なんの便りもない状態では、はじめはいつものことと思っていても、それがくすぶり心配になり、不安になったのかもしれない。

「俺が、なまえのこと切って他の女に走ったとでも思った?」
「あのねえ…」

話して、いくらか目が覚めたらしい彼女は俺の腕の中で寝返りを打つと、呆れたようにそう言って暗闇の中で俺を見た。俺は暗闇で目が良くきく。

「臨也みたいな人と、まともに付き合える女の人なんて、たぶんそういないから。それくらい自分が面倒くさいってこと、自覚したほうがいいよ」
「俺、世間ではわりとイケメンで通ってるし、お金もあるけど?」
「それじゃあ、ベネフィットだけの関係でしょ」
「そうだから、なまえも俺といるんでしょう」
「そんなわけないじゃん。自分のしてることは全部棚上げして、『うわ、この女至極面倒くさい』って思ってる自己中心的な男と付き合うなんて、得るものより失うものの方が多いよ」
「でも、全部分かったうえで俺を選んだのは、なまえだよ」
「いつまで続くかなんてわかんないよ」
「なに、俺いつかなまえに振られるの」
「い、や…、その予定はないけど。でも、臨也はそのうち私に飽きるかもしれないじゃん」

何てことない会話のテンポで彼女はさらりと、言った。

「もしかして、飽きられたと思ってあんなにメールしたわけ?」
「最初はね」
「最初だけ?」
「臨也がほかの女が良いって思ったなら、別にそれはいいんだ。最悪風の噂で、自分が振られたって知るくらいでもいいよ」
「なにそれ」
「それよりもね、臨也が知らない間に死んじゃってたりしたらすごいやだ」
「………」
「臨也がしてることって、危ないことばっかりでしょ。それを辞めろとはいわないし。そういう仕事のせいで連絡が取れない日があってもいいけど、でも元気じゃないときに助けられないのはすごいやだ。私は臨也の仕事の手伝いはできないけど、体調悪い時に看病したり、死ぬときに手を握って見取るくらいはできるんだ」
「縁起悪いんだけど」
「ごめん。でも、本当に。3週間連絡なくて、怖かったの。臨也が危ない目にあったり、もしかしてもうこの世にいないかもって思ったら」

俺はしばらく答えられなかった。「ちょっと辛い」から「怖い」になった。俺が、俺と彼女との間に引いている線引きは、確かに俺自身の保身だが、彼女の安全を、彼女の日常が脅かせないようにというものだった。だけれど、それが結果としては彼女に恐怖を覚えさせた。

「俺は生きてるよ」
「知ってる…。不機嫌になるくらい、不規則な生活しながら生きてて良かったよ」
「心配だったんだ、俺の事」
「そうだよ…、悪い?」

悪いなんて、随分挑発的だな。こんな生意気じゃなかったはずなんだけどな。そう思いながら軽く笑って、彼女を抱き寄せた。

「いや、悪くないよ」

むしろ、良いくらいだ。と思ったのは言わないでおく。これ以上調子に乗って面倒くさい女になられても困る。