「は?」

今、たった今、目の前に座る男が発した言葉が咀嚼できなくて、間抜けな声が口からこぼれた。と、食堂のおばちゃんが私の頼んだ天ぷらそばと彼の鴨せいろを運んできた。彼は相変わらずにこにこしているけれど、私のどんぶりに浮かんでいる天ぷらを見て、よくもそんなものを食べれるものだ、といった目つきをごくごく一瞬の間したのを、この数年で培われた私の眼は見逃さなかった。私は構わずに割り箸を割って、汁に浸かりきっていないエビの天ぷらを箸の先で押さえつける。熱さで汁の表面には透明の油が小さな丸になって広がり、天ぷらの衣がくたっとなる。これこれ。汁を吸って衣が柔らかくなって、でも揚げたカリッとしている部分を残した状態で食べる。私流天ぷらそばの食べ方。

「ナマエ、七味取って」
「はい」

七味を渡し、もう一口天ぷらをかじる。そんな目で見るなと言ったところで、もちろん、天ぷら嫌いのこの男には無理な話なので、私はこの店に来ると黙って天ぷらそばを頼み決まってこの食べ方をして、勝手に幸せになるのだ。どんなに信じられないという顔をされても、天ぷらそばが食べたいのだ、私は。だってこの男は天ぷらが嫌いで、事実上同じベッドで眠り同じ釜の飯を食べているので、彼の台所に立つ限り天ぷらは永遠に作れないのだから。ここでくらい好きに天ぷらを食べさせろ。

過去に一度、夕飯に天ぷらを作ったことがあった。嫌いっていってもこれしかおかずがないのなら妥協して食べるだろうくらいのほんの軽い気持ちで。しかし、この男はまったく箸を付けずにお米と味噌汁と冷蔵庫にあった漬物で済ませてしまった。それ以来、食卓に天ぷらが再び現れることはなかった。どうせ作るのなら、どちらもおいしく食べるれるものの方がいいだろう。それに、代わりといったらなんだが、この男と定期的にこの店に来るので私の天ぷら欲求は満たされているのだ。

「でさ、どうなの」
「なにが?」

口元まで運んだ最後の一口の天ぷらを止めて、聞き返す。

「だから、結婚しない?」

ああ、そう言えばこの言葉を天ぷらそばが来る直前に言われたんだっけ。二度聞くと、意外にもすんなり意味が理解できるものだ。ぱくり、最後のエビの天ぷらを咀嚼しながら何度か頷き、慌てて飲み込む。ごくん。

「いいと思うよ」