ナマエは自分のした行動を振り返って、あれはどうかしていたなと思わざるを得なかった。

と言うのも、つい三日ほど前に大学を卒業して10年以上会計士として働いていた会社を辞めたからだ。どうして辞めたかと言えば、特に理由はなかった。 その日も普段と変わらない一日になるはずだった。ただ一つ違ったのは、転職するアニーの送別会が行われたくらいだ。備品の色画用紙で作ったメッセージボードが飾られた部署の会議室で、誰かが買ってきたカップケーキを食べていた。ナマエは部屋に溢れていた「寂しくなる」と「でも応援している」言葉の裏に、「仕事を増やしやがって」と「けど空いた穴はすぐ塞がる」と言う意味が込められているのをはっきりと感じた。その時、突然辞めようと言う気持ちが芽生えた。そしてカップケーキの残りを食べ終える頃にはそれが抑えられないくらい強く爆発寸前になっていた。食べ終わったカップケーキの包み紙を捨てようと部屋のごみ箱を探して視線を走らせた時、上司の横顔が見えた。次の瞬間には気持ちが爆発していて、彼の前に立つと今日で私辞めます、と宣言していた。一瞬にして部屋が静まり返った。数秒後、何事だと部屋がざわつきだし、上司がどういうことだ、と聞いてきた。理由がないのだからそれには上手く答えられない。ナマエは部屋を飛び出て自分のデスクの荷物をこう言う時のために引き出しに閉まっておいた段ボールに詰めた。すぐ後ろで上司が何か怒鳴っていた。そしてさらに後ろでは野次馬と化した同僚達が会議室の入り口から覗いていた。エレベーターに乗る為最後に会議室の前を通り過ぎた時、今日の主役だったはずのアニーが睨んでいた。

そうして、普段よりうんと早くアパートメントに帰ることになったナマエの行動は終わらなかった。自分の部屋に入り、抱えていた段ボールを置き床に置き、まだ日の傾ききらない明るい街を、窓から想像した。ナマエのアパートメントは向かいも似たようなアパートメントがあるので実際にロンドンの街並みを見ることはできない。それでも、この街に10年以上暮らしていたナマエには、簡単に頭の中で思い描くことができた。視線の先にあるテムズ川の対岸にはロンドン塔があり、その西の方角には多くの世界的に有名な建築物や観光の名所がある。川よりも手前の東側にはグリニッジ大学やマーケットがある。そうやって自分を中心に周りの街並みを想像し終えた時、そもそもどうして生まれ育った場所から300キロ以上離れたロンドンで暮らしているかを思い出し、これまた突然この部屋を引き払う事に決めた。

会社を辞めたのと同じように、ベッドの下に隠しておいた段ボールを引っ張り出し、手当たり次第に荷物を仕舞っていった。日が完全に傾いた頃、部屋には、段ボールの山と仕舞いようのないいくつかの家具と、それから数日分の着替えと小物とお金を詰めた旅行鞄だけが置かれていた。それからナマエは簡単に夕食を済ませ、食べきれなかった食品は全てゴミ袋に投げ入れた。翌朝はうんと早く起きた。部屋を突然引き払い、しかもごみも家具も不用品も全て残したままだと管理人が良い顔するわけないと分かっていた。なのでナマエは管理人が起きるよりも早く起き、旅行鞄を肩に掛け部屋を後にした。2ヵ月分の家賃に不用品を捨てるのに掛かるであろう金額と手間賃を足したお金と部屋の鍵を入れた封筒を、管理人の部屋のポストに入れた。

それからはあっという間だ。ナマエは地下鉄を乗り継ぎ、南西部に向かう鉄道のチケットを買った。特に行先を決めていなかったので、終点までのチケットにした。鉄道に乗り込み、景色を眺めながら船を漕いだ。ナマエが何度目かのうたた寝から目が覚めた時、2時間も経たないうちに終点に着く頃だった。次に着く駅の街は昔、ガス爆発が起き十数人の死者が出た事で有名になった。それがあまりにも不可解な事故だった為に、今でもオカルト好きの間で密かな観光スポットだとその近くに住んでいる友人が手紙を寄こしてくれたことがあった。そしてその次の駅がナマエの通っていた大学のある街で、その次の終点がナマエの故郷だった。故郷はいかにも西南部の負の部分を詰め合わせたような場所だった。そこを一生の場所と決めていた母を苛立たせるために子供の頃、自転車で一時間離れた所にある奇妙な人間と不思議な風習のある変わった町に遊びに行ったものだ。

結局、ナマエは二つ目の駅で降りた。旅行鞄を持って街の中を歩いた。地図は必要なかった。ナマエが大学生だった頃からこの街はほとんど変わっていない。旅の疲れで宿を探すことよりも、身体がアルコールを求めていた。しかし、夕方で仕事を終えた人々も学生達もパブに集まっていて、その賑やかで窮屈な店に入る気になれなかった。結局ナマエは、メインストリートから外れた路地裏のカフェで足を休めのどを潤すことにした。ひっそりと佇むこの店をどうして自分は見つけられたのかナマエは不思議に思ったが、テラス席に案内された時、仕事を辞めたのも部屋を引き払いロンドンを出たのもこの駅で鉄道を降りたのもここに来る為だったのだと分かった。

ナマエは昔一度だけこの店に来たことがあった。昔と変わらないテラスのテーブルの配置、縦2列横3列の二人用の席を見て思い出したのだ。思わずその時のように、真ん中の列の道路側の席を希望し、座る椅子も記憶通りの方にした。テラス席はナマエともう一人女性客だけだった。女性はこちらに向かい合うように座っていた。普段だったら空いている店でわざわざ他の客の隣の席でしかも向き合うように座ることはナマエはしないのだが、その女性は熱心に新聞を読んでいるので、目が合って気まずい思いをすることもないだろうと判断した。

やって来た店員にグラスワインとサンドウィッチを注文した。なんとなく視界に入るその女性はずっと新聞の同じページを読んでいた。微動だにしないのでナマエは、もしかしたら彼女は読んでいるふりをしているのかも知れないと思った。そこに注文の品が届いた。ナマエが乾いた喉をワインで濡らし、サンドウィッチに噛みついた時、女性がひとり首を振り笑い出した。それを聞いてナマエはぎょっとした。しかしそれは優しい方で、その女性が新聞を裏返した時こちらに見えたページを盗み見したナマエはもっとぎょっとすることとなった。

女性が読んでいた新聞の普通なら広告が刷られている場所に男の写真が大きく印刷されており、その横の広告の場所も使って、危険人物、逃亡中、と書かれていた。その顔はひどく痩せて髪が伸びてはいたが、その男がその昔まさにこのカフェで話をした男だと言う事にナマエは気が付いた。