ナマエがまだ学生で、大学の専攻を考えても何となく卒業後は会計士になるだろうなと考えていた頃だ。自分の生まれ育った南西部の独特の慣習やどこか閉鎖的な環境が嫌で、それを大切だと言う母親がもっと嫌で、家から出たい為だけにこの街の大学に進学した。学ぶ事は二の次だった。ナマエにとってはあの町から出ることが重要だった。しかし、町を出たものの結局は南西部の大学に通っていて、何となく選んだ専攻で学んだ事を踏まえ何となく仕事について考えていた。特にやりたい仕事もないが家に戻る気もなく、どうしたものかと暗い気分になっていたその日、アルコールが飲みたかった。しかしこの街のどのパブに行っても知り合いの学生に会うのは分かっていたのでふらふらと街を歩きこの店にたどり着いた。今日とは違いそこそこ客のいたその日、通された席に座ってナマエはビールを飲みアルコールの力でだいぶ気分が上向いた。その時空いていた隣の席に背の高い黒髪の男が座った。二人席のどちらでも選べるのにわざわざナマエと向き合う方を選んだ。

それが丁度、今隣の席の女性がテーブルの上に掲げている新聞の男がこちらを睨んでくるのと全く同じだった。紙に刷られた男はじっとこちらを見ているが、それだけでぎょっとするものがあった。あの日もそうだったと、ナマエは手に着いたパン屑を払いながら思い返した。

ビールのおかげで身体も気持ちも暖まった頃、さてじゃあ考え事を始めようと鞄から本を数冊とノートを取り出した。昔からいつか西南部から出ると思って事あるごとに集めていた旅行本だった。行った事のない場所を写真と文章から、どれだけ自分のいる場所よりも良い所か想像するのが好きだった。テーブルいっぱいにそれらの本を広げ、どの街が良いか検討し、気になった点をノートに書き出した。

いつの間にかビールのグラスの場所がテーブルの端に追いやられていた。危ないと本を押して場所を作ると、その拍子にその男と足元に一冊の本が落ちてしまった。急いでそれを拾おうとするが、先にその男が手を伸ばしそれを持ち上げた。その男は現れた時からどこか傲慢な雰囲気を漂わせていて、好感を持てずにいたが、すんなりと取ってくれたし、その身のこなしが以外にもスマートだったことにナマエは驚きまた感心した。なので、こちらも女性らしく上品に席に着いたまま男が本を手渡してくれるのを待った。その時、その男が意外にも整った顔を持っていることに気が付いた。もしかしたら、始めに感じた傲慢さは、実は自信や勇ましさだったのかもしれないとナマエは考え出していた。しかし、男はしばらく拾ったナマエの本を見て鼻で笑い投げるようにナマエに本を返した。

「ロンドンになんか行きたいのか」

その態度にナマエは始め何を言ったら良いか分からなかった。落ち着きのある男性らしい声だったが、その言葉には田舎者を馬鹿にするような軽蔑で溢れていた。西南部から飛び出したいと思いながらも未だにそれができていないナマエは、他者のとりわけ都会の人間からの田舎に対する非難に敏感だった。なのでナマエは、隣の男が安そうな服を着ていようが振舞いがぞんざいだろうが、地方の上流階級ではなく都会の出身であろうと、確信していた。

「ロンドンの何がいけないのよ」
「あそこは、腐った人間の住む場所だ」
「貴方に何が分かるって言うの」

普段のナマエは内向的な性格で、見ず知らずの人間に食って掛かるような口の聞き方などしなかった、と言うよりも、気のない挨拶ですらできなかった。全てはアルコールのせいだった。

「分かるさ。俺は16までそこの腐った屋敷で暮らしてたからな」

それを聞いて思わず笑ってしまった。ロンドンに屋敷などあるものか。アルコールのせいで変に甲高い声が口から零れていた。それに不愉快だと男は顔を顰めた。男はこちらに身を寄せて、ナマエのテーブルに目を通してからまた鼻で笑った。

「あんた、田舎から出たいのか。やめとけよ。あんたみたいな田舎くさい人間、都会で上手くやってけるわけない」

そう言って、こちらを見据えたのだ。そこに女性が現れた。男は女性に軽いキスで挨拶をするとこちらの事など何もなかったかのように、その女性と会話を楽しみ出した。

そう、思い返せばその男との出会いでナマエはロンドンで働く事を選んだのだ。母親からも西南部からも抜け出し、見ず知らずの男に勝手に無理だと決めつけられたロンドンで生きることを決めた。それが10数年前の話。そして、不思議な事に会社を辞めアパートメントを引き払いロンドンを抜け出して、辿り着いた場所で思わぬ形でその男と再会を果たしたのだ。

「何か?」

向かいの女性に声を掛けられた。相手が不審がるくらいの時間、その女性が持っていた新聞をぎょっとした顔で見つめていたに違いない。ナマエは取り繕うようにワインも口に含み、それから話した。

「いえ、ただその新聞が興味深くて」

まさかその逃亡犯と昔このカフェで話した事があるなどとは言えなかった。ナマエはグラスを傾け男の写真が載っている上の新聞記事を示した。女性は新聞を裏返し写真の乗っているページを見た。それから、にやりと笑った。そう言えば先ほどもそのページを読んでいた時この女性は笑っていた、とナマエは思った。何が可笑しいのだろう。そのページは政治家の汚職問題と逃亡犯の写真しか載っておらず、笑う要素などなかった。

「良かったら、差し上げるわ」

女性は立ち上がりながらそう言った。踵の高い靴だというのに、石畳の段差に足を取られることもなく優雅な動作だった。小さなバッグを肩に掛け、ナマエに近づき、女性は新聞を差し出した。その女性も熱心に読んでいたので、申し訳ないと首を振った。

「気にしないで。実は私もう一部新聞は持っているから」

バックから折りたたまれた新聞を半分取り出して、女性はそう言った。言われるがままに、差し出された新聞をナマエは受け取った。すると、女性は颯爽に道路へと足を進めた。テラス席からその様子を見ていると、女性は視線に気が付いたのか、こちらを振り返って一度手を振ってから、街の中心へと消えて行った。

ナマエは手元の新聞に視線を下ろした。こちらに睨みを利かせている男を見下ろす。罪状などは書いてなかった。それを良い事にナマエはあれこれとその男がしでかした事を想像した。詐欺、強盗、誘拐、殺人。何でもしてしまいそうだと思った。それから笑い出した。自分はそんな殺人までできそうな人間の言葉一つでロンドンで生活をし、結局夢破れその地から逃げたした。そして辿り着いたのはロンドン行きを決定的なものにした男と出会ったカフェで新聞越しに再会すれば、その男は逃亡者だというではないか。可笑しな話だ。ひとしきり笑い、それから隣の女性が去り際にバッグから見せた新聞に刷られた男の写真を思い出した。手元の新聞の写真よりも大きく一面に刷られているらしいサイズだった。そしてナマエの目の錯覚か、動いているようにも見えた。自分は疲れている、とナマエ思った。逃亡者として新聞に載っている男のせいで、まったく打ち解けられない都会で10年以上暮らすことになり身を削り疲れ切っていたのだと決め込んだ。ゆっくり休める宿を探そう、と彼女は新聞を握って席を立った。