「お前なんでこんなの吸うの?」
「ん、ハッピーになりたいから」

吸うより売った方がお金になるから、私はほとんど吸うことはない。けど、たまに、例えば警察の言いがかりで一晩檻のなかに入れられたときとか、保護観察司がむだに説教垂れたときとか、下っ端がとんずらしたせいで私がツケを払うことになったときとか。ほんの気晴らしに吸う。吸うと、世界が変わる気がする。このボロボロのアパートが少しこぎれいに見えたりするし、明日の仕事が楽しみな気分にあったりするし。昔の、ほんの少しだけ残ってる記憶がよみがえってきて、幸せってこんな感じなんだ、って思えたりする。

「ハッピー?」
「そ、ハッピー。あんただってハッピーになりたいときくらいあるでしょ?」
「家にいた頃が毎日地獄だったけど、今は自由に楽しくやってるからな」

なんだ、自慢か。こいつに吸わせたのはもったいなことをしたのかもしれない。考えるのが遅くなってきた頭で、ぼんやりとシリウスの話を聞く。脳みそが溶けてく気がする。それはそれで楽しいかもしれない。溶けかけた頭の中で懐かしい声が聞こえた。私のハッピーの音。

「ああでも俺、弟と話せたらハッピー?かも」
「話せばいいじゃん」
「今はもう無理。俺は家出たし、学校で会っても、ダメだな」

学校ってあの全寮制のか。なんだ、家が嫌いだっていうのに、弟と同じ学校とか、言うほど家と縁切れてないじゃん。

「なんで?同じ学校なら、それこそ話せばいいのに」
「無理無理。俺はグリフィンドールであいつはスリザリンだから」

なんか、知らない単語が出てきた。シリウスの頭の中では何か奇怪なおとぎ話でも繰り広げられてるのが手に取るように分かった。他人の狂った話を聞くほど面白いものはない。溶けてる脳みそっていうのを突飛な話を作れちゃうし、見えないものが見えるし、昔の音が聞こえてくるけど、意外とどれもつじつまが合う。

「へえ、じゃああんた学校やめれば?」
「それも無理。イギリスで魔法学べんのあそこだけだし。ジェームズたちもいるし」
「へえ、あんた魔法勉強してるんだ?」
「おー」

で、ジェームズっていうお友達がいるわけね。架空の場所の架空の人間。私にもいる。フランスから来たシャルル。歴史上にもそんな名前の人がいたねと言えば、頭がいいねと褒めてくれて、そのままフランスにあるどこかの古城に連れて行ってくれる、留学生。学校に動く階段があるとか、授業は幽霊がやるとか聞きながら、私もシャルルの訛った英語とか古城の壁の装飾とかを思い浮かべた。

「俺、そこにいんのが楽しいから、ハッピーはいいや」

そう言って、また一口吸った。あーあ、いいやって言いながら吸ってんじゃん。こんなにべらべら話せる架空の世界にひたっちゃってるんなら、こいつ、これにはまっちゃうな。夏じゅうせびられたら私の分がなくなるなという心配と、吹っかければいくらでも払ってくれるという期待を天秤にかけた。

「でお前にとって、ハッピーてなに?」
「あたしにとってのハッピーとは、犬」

ねっ、と頭の中の声に問いかけると、ワンワンと鳴いてくれた。シリウスにも聞かせたい。あたしの足元に座って鳴いてて、左の手の平にはこのコの短毛な身体があるのに、これ全部あたしの頭の中でのことだから、シリウスには見えないし、聞こえないし、触れない。悲しいね、パピー。パピーは母親と付き合った何番目かの男が私にくれた犬だった。家にいつもひとりだった私にできた初めての友達。白色なのに汚れてるのが私とお揃いのかわいい子。何日か後に、母親が捨てちゃったけど。パピーなんて名前よりもっとましな名前つけてあげれば良かったね。ごめん、ごめん。より一層強く頭を撫でてあげれば、鼻を鳴らして許してくれた。ありがとう。

「なら、犬飼えば?」
「無理無理」

シリウスがさっき言った言葉をまねする。また、懐かしい声が響いた。ワンワン。ね、パピー、こいつ馬鹿。私みたいに自分を生かすのでいっぱいいっぱいなのが、犬なんか飼えるわけがなかった。すぐ飢え死にさせちゃう。

「じゃあ、俺がお前のハッピーになってやるよ」

なんか、気持ち悪い言葉を吐かれた。それも、溶けてる頭には面白い。ほとんど吸い切ったそれを挟んだ手が震えるほど笑ってしまう。きっと、次に意識がちゃんとした時にはぼうっと気だるさとあいまいな記憶と、独特の香りが髪にしみこんでるだけだし、今はとりあえず楽しんでおこう。

「なって」

別に、深い意味はなかった。なれるならなれば?くらいの気持ち。缶から二本目を取り出して、左手で火をつけた。と、瞬きする前までこいつが立ってた場所には大きな黒い犬がいた。一本終わらせただけで頭がこんなにも溶けきったことはいまでになかった。パピーに手を伸ばしたらそこには何もなかった。口に含んで、舌の感覚がさらにぐにゃぐにゃになるのを感じならがパピーが戻ってくるのを待ったけど、戻ってこない。煙を吐きながら、この目の前の犬が、パピーか、パピーの生まれ変わりか、そんな感じなんだと解釈した。

「あんた、真っ黒。それにでっかい」

私の頭にいるパピーは薄汚れてても白かったし、ちいさかった。でも、今は犬のそばにしゃがむと私が迫力負けするくらいのサイズで、毛もすっかり漆黒でふわふわの長い毛だった。思わず抱き着けば、両手いっぱいの塊だった。パピーはどうやらとてつもない成長をしたらしかった。それも、頭の中ではありえる。犬なのに、前足を器用に私に回してくれるのも、ありうる。あったかいね、といえばワンと昔のパピーより大きくて深い声。これが私の新しいハッピーの音か。良いこと、良いこと。私も大きくなったし、パピーも大きくなってなきゃね。

おっきいパピーの毛に火が付かないように注意しながらもう一口吸えば、おっきなパピーは消えてしまった。頭の中が溶けきるのはこれからなのに。代わりに、腕のなかにはシリウスがいた。シリウス、あんたほんとに私のハッピーになったんだ。すごい、すごい。シリウスが犬になっちゃうなんて、三本吸ったらどうなっちゃうだろうか。もしかしたら、私自身も頭の中のことかも。シャルルの隣にいる私が本当の私だったりして。この私も、パピーも、シリウスも、おっきなパピーも、全部頭の中でも、それでもいい。溶ける頭の中で、それなりに楽しめてる。