司馬昭様、と、疎らではあるが讃えるような声が響き出す。過ぎて行った劉禅の背は見えなくなり、司馬昭の姿も次第に小さくなっていく。頭を掻く彼を案じているのか、普段よりも控え目な歩調。触れかけた手はしかし動きを止め、王元姫の気遣いを窺わせた。


(…見られる顔になったものだ)


劉禅の降伏。それは同時に司馬昭の統治が蜀漢にも行き届くことを示している。司馬師が落命した際にはどうなることかと危惧したが、見事彼はただの司馬昭であることを捨てたのだ。司馬昭ではなく国の柱、司馬昭である前に王たることを選んだ。それこそ紛れも無く賈充が望んだこと。何よりも強く深く、願ったことだ。


(――さて、あれは容易く頭を垂れたが。問題は姜維だな)


加えて王元姫は鍾会の様子も気掛かりなようだったし、手を回す必要がなくなったわけではない。ただまあ、秘密裏に片付けてしまうよりは泳がせる方が捕らえやすくはある。そして示す機にもなる。例えばそう、諸葛誕のように。


(ああ、それならば問題はもう一つか)

何とかならないか、話せば。和を保っていたとは思えぬ相手にさえそう吐き出す男だ。鍾会は元より、姜維にまでそれを持ち出さないと果して言い切れるだろうか。

(…俺自身が認めたろうに。子上は最早、頂だ)


これから個としての司馬昭を支えていくのは王元姫になる。もう賈充を気にかける必要はない、友としても、臣下としても。賈充という認識ではなく、国を固めていくための一部と思えばいいのだ。彼が王であり続けるためにも。


「お前はどう思う、」


確かあの時は、諸葛誕が命を落としたあの日は、彼女は眉間に皺を刻んで怒りとも悲しみとも言い難い表情を浮かべていた。この国はどうなっていくのか、あなたはどうなっていくのか。震える声が紡いだ言葉。それでも彼女はただ司馬昭の後ろを、賈充の後ろを歩いていた。だからだろうか。振り返るのが癖になってしまったのは。


「――……」


彼女は、愛国心が強かった。その愛というのも魏に、曹に対して注がれていたものであり、彼女の定義での魏が形を失ったとしたら。そうなったら彼女は、彼女の命は。

夏侯覇が姿を消した日、諸葛誕が死に絶えた日。賈充にとって司馬昭を開花させる道であった出来事は、彼女の心に何を落としたというのか。


「……何処にいった」


司馬昭と同じように、彼女も賈充への意識をしなくなっただけ。きっとただ、それだけだ。



end.

20130804
曰はく、」様寄稿。


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