髪を撫でる掌。好んで私を撫でる女性というのは一人しか浮かばない。その気配に眠ってしまおうかと何となしに閉ざしていた瞳を開くと、ぼやけた彼女が言葉を発しているようだった。次第にはっきりと周囲を認識することが出来るようになり、彼女の表情を映すことも敵う。少し怒ったような顔。声は出さずに首を傾げると眉を寄せるものだから、近い記憶の中に彼女を怒らせる言動があったかと考えてしまった。


「言いたいことがある?」
「お休みになるなら寝所になさいませ」


言葉に刺が含まれている割に触れる指先は慈愛に満ちている。曹操殿然り、まだこうして怒られている内が華だ。私という人間に意識を向けているからこそだし、ああ、そうすると陳羣殿も私を好いてくれているということになるのかな(本人の前で口にしたらそれこそ怒鳴られそうだけど)。


「ついね。ごめん」
「先日にも同じ言葉を聞いた気がするのですが」
「そうだったかな?うん、あなたが言うなら間違いはないか」
「遠征を前に病を得たらどうなさるおつもりですか?殿のお傍にいたいと願ったのは奉孝様ご自身でしょう?」
「ただでさえ、このところ体調が優れないしね。…あなたに怖い顔ばかりをさせないためにも、寝所に閉じこもってしまおうか」
「朝からそうされては却って不安です」
「おや。どうしても悩ませてしまうとは、私もなかなか罪作りだね」
「…何をおっしゃいます」


頭を軽く叩く(と、言うよりは乗せる程度か)小さな手。私だって夏侯惇殿や張遼殿と比較してしまえば華奢なのだけれど、そこはやはり性差と戦を知っているかいないか、その違いになるのだろう。この柔な掌は誰に守られるのか。唐突に沸き上がった感情のやり場に困惑を覚える。


「考えることが多過ぎる」
「癖のようなものではございませんか」
「そう、そうなんだけど」


明らかに思考していることが多い脳。常に曹操殿のためにあろうと、曹操殿のお心に添うことばかりを意識している。それにあの胡散臭い男は苦笑しながら「妻はどうなんだい」と零していたか。…ああ、私がここまでとすれば彼に曹操殿を渡すことになるのか。それは嫌だ、とても。


「酷い顔ですよ。昨日は晩酌などなさっていなかったでしょう?」
「晩酌はね」
「何をお考えなのですか、奉孝様」
「…私の後釜について」

そう吐き捨てて視線をやれば目を丸くしている。だいたいは伝わったかな、私の思いが。

「成る程、それでそのような。賈ク殿がお嫌いで?」
「あれに曹操殿は渡したくない。それから、あなたもね」
「何故私が賈ク殿のものになるのです」
「だって私の後釜だもの」
「なれば殉じますか、奉孝様に」
「…それは嫌だ」
「なんと我が儘な」
「冷たいなあ」


明確な終わりが存在するからこそ生ある日々というのは面白い。何も恐れる必要も悔やむ必要もないと、ずっと思っていたのに。


「――…あなたのことだけを考えて、あなたへの想いだけを宿して生きていれば、楽なのかな?」
「出来もしないことを、口になさるべきではございません」
「出来もしない、まあ確かに、そうだけれど」


彼女に対する想いに偽りはなくて、心を揺らす感情も消えることなく存在している。それでもそう、まさに言葉通りだ。


「それでよいのです、奉孝様」
「…うん」


曹操殿を切り捨てて身を投じることなんて、私には出来ない。彼女は私の慕わしい人、彼女にとっての私も同じだ。その温度に浸るのは心地がよくて、もっとこうしていたいとも、思うのに。


「沈んだその時には、私が背を押しますから」
「そのまま沈めてくれてもいいのに」
「いいえ、押し上げます」
「私はあなたを」
「それでも。奉孝様はきっと、後悔をなさると思います」
「あなただけを選んだら?」
「ええ」


そのまま二人で深く沈んでいきたいと口にはするくせに、きっと私は、醜く足掻いてでも地上を求めるのだろう。


「…確かにそうだ」


けれどきっと、それでいい。



end.

20120912
曰はく、」様寄稿。


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