#3


よし。
窓は閉まってる、電気は消した。これで大丈夫かな。部屋をぐるっと見回して、そういえばまだガスの元栓を閉めていなかったことに気づいて慌ててキッチンへ走った。うん、今度こそ。

八畳一間、ロフトとキッチン付き。トイレとお風呂が別れている、比較的新しいアパート。駅から歩いて20分とそれほど利便性はないけれど、家賃のことも考えれば良い物件だと思う。

「…行ってきます」

どうせそう言ったって何も返ってこないことは分かっていた。でも長年の癖は直るはずもなく、ドアを開けて振り返りざまに呟く。

静まり返る部屋はやっぱり寂しくて。
そんな感情を閉じ込めるようにカチャリと鍵をかけた。






「新入社員の君たちには明確な目標を…」

偉い人は話が長いとは良く言ったものだと思う。校長先生しかり、学長しかり。そして社長も例外ではなかったようです。
とてもありがたいお話なのは良くわかるのだけど、昨日の夜あんまり眠れなかった私にとってはただ残酷なだけ。何度も欠伸が出そうになるのを必死にやり過ごしていたことしか覚えていない。


やっと入社式も終わり、私はいよいよ配属された部署に足を向けた。その途中。

「…あれ?君は」

後ろから声がかかった。なんだかものすごく最近聞いたことのある声だ。もしかしなくても君、とは私のことだろうか。そっと振り向くと、そこには昨日の優しいお兄さんが笑顔で立っていた。

「やっぱり!君も新入社員だったんだね」
「え、あ…!あの、昨日はありがとうございました!企画部に配属されることになりました、苗字名前です」

このお兄さんは善法寺伊作さん、というらしい。この会社の方だとは分かっていたけれど、なんとまあ私が配属された部署の部長さんだというじゃないですか。
って、え…?部長…?

「ぶ、部長さんだったんですか!?す、すみませんなんか入社前から色々とご迷惑を…」
「ふふ、部長に見えないってよく言われるよ。おかげで上司の威厳っていうかさあ…」

みんな敬ってくれないんだよ、と拗ねる善法寺部長がなんだか可愛らしくてくすりと笑うと、それに気付いた彼は恥ずかしそうに頭をかいた。
これから挨拶しに行くんだろう?と聞かれて頷くと、それなら一緒に行こうかと善法寺部長は隣に並んで笑った。なんだかこの人の笑顔ってほわーっとしてて癒されるなあ。優しそうな上司で良かった、と心底思って私は笑顔で返事をした。



「みんな、少しいいかな」

部長の後に続いてオフィスに入ると、視線が一気にこちらに向いたのが分かった。な、なんか恥ずかしい…!顔を俯かせたまま上げられないでいると、部長は頭をぽんぽんと撫でてくれた。

「緊張してるのかな?この部署は比較的若い人が集まっているし、皆優しいから大丈夫だよ。特に君みたいな可愛い女の子にはね」

ひい、なんてことをすらすらと…!そんなお世辞を言われても信じられません。でも、このままだと第一印象最悪だ。せめて挨拶だけでも、と勇気を振り絞ってぱっと顔を上げると、すぐ目の前には。

「やあ名前ちゃん。今日はちゃんと来れたんだね」
「え、あああ!き、昨日の…!」
「へえ、覚えてくれてたんだ」

忘れもしません、昨日私が腰を抜かして歩けない羽目になった原因。
笹山さん、が目の前でにこりと笑っていた。

「あれ?笹山、彼女と知り合いなの?」
「…まあ。それより部長の方こそ、名前と知り合いなんですか?」

…なんだろう。背筋が寒い。いや、今日は暖かい1日になるでしょうとお天気おねえさんが言っていたのだから寒くはないはずなんだけど。というか、今さりげなく名前を呼び捨てにされた。

「いや、ちょっとね。それより、ああ、もう知ってるなら必要ないかもしれないけど、彼女は苗字名前さん。苗字さん、こっちは笹山兵太夫。ここの副部長だよ」
「あのもう一回言ってくれますか」
「ん?笹山兵太夫」
「いえ、そのあとを」
「ここの副部長だよ?」



誰か嘘だと言ってください…!なぜ善法寺部長の部下がこの方なんですか!昨日の一件で、笹山さんは危険な人物だと認識したばかりなのに。できれば社内で関わらないでいたい人(今のところ)ナンバーワンの人なのに。
昨日のドS発言とほっぺちゅう事件を思い出して眩暈がした。部長はその他のメンバーの方々に私を紹介しているらしい。でもそんな部長の声が遠くに聞こえる。ああ、これが現実逃避ってやつか。



「これから楽しくなりそうだね」

素晴らしくさわやかな声でよろしくと、そうのたまった笹山副部長を見上げれば視線がかちあう。

何故かそれを逸らすことができなくて、私は部長に呼ばれるまでその瞳に囚われていた。





▽異例の大出世をした期待の若手No.1の笹山くん



 



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