#1
落ち着いて、もう一度深呼吸する。
すぅ、
はぁ、
よし。
意を決した私はとうとうその門をくぐった。
ここを通るだけに15分も費やした自分に、思わずため息が出た。
目の前には、今日から私が勤めることになるNT商事がそびえたつ。
高いビルはゆうに20階を超えていて、てっぺんまで見上げると首が痛くなった。
実は、なぜ私みたいな人間がこんなおおきな会社に就職できたのか、いまだに良くわからない。
ただ、ひとつだけわかっているのは、ものすごく運が良かったということだけだった。
結構前からあこがれてはいたけど、そう簡単に内定が貰えるはずのない大手企業。
どうせ駄目でもともと。
落ちるの覚悟で当たって砕けてみよう!とのんきに考えていたところへ採用通知が届いて、私は驚愕で言葉を失った。
え、これドッキリ?ドッキリなのかな?
あまりに信じられなかった私は、家族や友達に通知をしっかり見てもらって…そこでようやく、私の眼は正常なのだと納得したくらいなのだ。
そんな会社の玄関口でもたもたしていた私は、やっとの思いで慣れないヒールをコツコツと鳴らしながら自動ドアに入り、そのままびくびくしながらも歩き出そうとしたのだけれど。
入ってすぐのエントランスには、完璧な笑顔でたたずむ受付嬢の方々。
吹き抜けになっている2階には、オフィスの中や廊下にいる社員の方々。
それを見た私は、無意識に体をバックオーライ。
再び玄関のところまで戻って、死角になっている壁からちょこんと顔を出して様子をうかがった。
…だって皆さん、見るからにして仕事が出来ますって顔をしているんだもん。
あの空気に、果たして私は溶け込めるのかな。
もちろん研修だってしたけど、やっぱりいざ本格的な仕事ってなると、色々違うと思う。
「あれ、君こんなところで何してるの?」
「っ、ひゃあ!」
考え事をぼーっとしているところに、突然後ろからぽんと肩を叩かれて、びっくりした私はなんとも情けない悲鳴をあげてしまった。
そのせいで両腕で抱きしめていた鞄をうっかり落としてしまい、中に入っていた書類やらペンケースやらが床に散乱してしまう。
「あー」
「あ、ご、ごめんなさい」
また、やってしまった。
昔から鈍くさいと言われ続けているのは伊達じゃない。
自分ではもう少し落ち着いた人間になりたいと思っているのに。
ため息をつきながら、いそいそとしゃがんで落ちたものを拾い集めていると、「はい」と目の前に整えられた書類が差し出された。
そのままゆっくり視線を上げると、そこには。
「こっちこそごめんね、驚かせちゃったから」
にこりと笑う、美形の男の人がいた。
わぁ、本当に美形だ。やっぱり大企業にもなると働いている人も違うんだなあ。
この人だって、絶対お仕事バリバリできそうな感じがする。
「…?どうかした?」
目線をそらせないまま見つめていると、彼は首をかしげた。
「い、いえ、私の方こそすみません。あの、ありがとうございました」
慌てて書類を受け取ると、その男の人はどういたしまして、と笑った。
「その書類、この前新入社員に郵送したやつだよね?ってことは…」
「あ、はい、に、入社式に」
「ふうん。でも入社式って、明日…だけど?」
「………ええっ!?」
「ほら、今日は木曜日、でも入社式は金曜日でしょ?つまり明日」
彼は私が落とした書類の中から入社式についてのプリントを取り出し、日時の項目をトンと指した。
「ほ、本当だ」
あれ、おかしいな。ちゃんと確認したはずなのに。
それに時間ならともかく日にちを間違えるってどうなの?
でも確かに言われてみれば、ここに来るまで新入社員のような人たちに全く会ってない。その時点で、気付くべきだった。
「またやっちゃった……」
なんでいつも私ってこうなんだろう。
さすがに今回は自分で自分に呆れてしまった。
鞄をまた抱き締めて俯く。
この人にだって絶対、呆れられたよね。こんな新入社員なんかいらないって思われてるかも。
本日何度目かのため息を吐くと、「…ぷっ」という吹き出すような声がして、ふいに頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。
「…な、何」
「君、面白いね。いじめがいがありそう」
「は?い、いじめ?」
「あ、間違えた。いじりがいがありそう」
「どっちも似たような意味じゃないですか!」
パッと顔を上げて叫ぶと、とても愉快だと言わんばかりの瞳にぶつかった。
まるで子供が新しい玩具を見つけた時みたいに、彼の瞳は輝いて見えて。
視線がなかなか私から逸らされないから、とうとう耐えられなくなって私から目を逸らした。
「いじめは、いやです…」
新しい環境で、ただでさえ不安だらけなのに。
いじめがいがありそう、だなんて。
入社後の自分の姿を想像して、悲しくなった。
瞳に水の膜が張る。
「君ってさ、根っからのいじめられっ子タイプだよね」
後学の為に教えてあげよう。
…涙目は、逆に加虐心を煽るだけだよ。
そう言って、彼は私を壁においつめた。
「ちょっと、あの…?」
「笹山」
「…え?」
「笹山兵太夫。僕の名前ね」
「は、い?」
顔の両側に手をつかれて逃げ場はない。何をされるかと思えば自己紹介をされた。
「せっかく教えてあげたんだから、今度から僕のことはちゃんと名前で呼ぶんだよ?名前ちゃん」
「え、なんで名前…」
「さっき落とした書類に書いてあった」
可愛い名前だね、なんて至近距離で微笑まれて、わたしはもう本当にどうしたらいいのかわからなくなった。
涙が零れそうになるのををなんとか堪えていると、遠くから「笹山さん!」という声が響く。
「あーあ、本当、空気読めない奴って嫌い」
そう言いながら笹山さん、は、興が削がれたように私の前から退いた。
それに安堵してほっと息を吐くと、「じゃあまたね、名前ちゃん。入社式は明日だよ」と言って、なんと私のほっぺにちゅ、と軽くキスをしたのだ。
「な…っ!」
「じゃあね」
意気揚々と去っていく彼の後ろ姿を見ながら、わたしは壁に背を預けてずるずると座り込んでしまった。
立てない。
顔が熱い。
膝が笑ってる。
腰も抜けた。
なんだか、とんでもない人に出会ってしまった気がする。
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