#10



「お前さぁ、やる気あるの?」


真上から降ってきた言葉は、ちょっとだけ苛立ちが混じっていた。


「…すみません」
「これで何度目だよ」
「…すみません」
「すぐやって。終わるまで帰れないと思って」
「…すみません」
「…今日は名前が終わらないと僕だって帰れないんだから早く終わりにしてよね」
「すみま……え?」
「部下の尻拭いは上司の仕事なんだよ」
「すみませ…」
「あーもうすみませんすみませんうるさいな、僕に残業させるのは名前が初めてなんだから悪いと思ってるなら早く行動して」
「は、はいっ」

人もまばらな午後5時過ぎの社内。
エントランスを見下ろせば定時で帰る人達でにぎわっている。

そんな光景を横目に見ながら、私はひたすらパソコンとにらめっこしていた。
これで何度目だろうって、自分でも思う。自分でも思うのだから、完璧主義の笹山さんから見れば目も当てられないといったところかな。

ぼんやりしてたら頭をぱしんと叩かれた。全然痛くないから一応手加減してくれたのだろう。

「最近どうしたの、ミスが多いけど」

ぶっきらぼうな笹山さんの呟きに、一瞬体がピクリと反応した。
そう、最近こういうのが多い気がする。

何度も何度も見直して完ぺきだと確認した書類が、ちょっと目を離した隙に内容を変えられて、笹山副部長に提出する時には色々なところにミスが見つかる。そして結局最初からやり直し。バックアップまで念入りに消されているのだから、本当に悪質だと思う。

どんなにアホな私にだってさすがにわかっていた。これが偶然の産物でも、はたまた幽霊の仕業でも無いってことくらい。

でも、誰がこんなことをしているのかなんて粗探しするのも嫌だし、なにしろ証拠なんてどこにもないのだから、いくら犯人探しに躍起になっても仕方ないのだ。

そんな時間があったらその書類を作りなおす時間に当てた方が良い。


「…あは、どうしちゃったんですかね。疲れが溜まってるんでしょうか」

無理矢理笑って顔を上げると、笹山さんは少し眉間に皺を寄せたけれど「そうか」としか言わなかった。




初めての残業は睡魔との戦いだった。少なからず疲労が溜まってるのは事実だったし、やはり気疲れも原因なのかなぁ。
ちょっとでも気を抜けば船を漕ぎ出してしまいそうになってあわててぱちんと頬を叩く。

そういえばさっきから静かだけれど笹山さんは何をしているのだろうと気になって周りを見回すと、副部長のデスクに座った彼はコーヒー片手に雑誌を読んでいた。わぁ、びっくり。

「あの、笹山さん?」
「なに、終わった?」
「い、いえ、まだですが」
「なら早くしてよね」
「がががんばります!…でも、あの」
「なに」
「笹山さんはなんで一緒に残ってくれてるんですか?」
「……は?」
「お仕事がないなら、私に構わず帰っていただいても…」
「提出期限が今日までの書類、名前が作ったら誰がチェックすると思ってるのかなあ」
「…あ!す、すみませ」
「聞きあきた。いいから早くして」
「はい!」
「ん」


再び雑誌に視線を落とす笹山さんに頭を下げ、いそいそと自分のデスクに戻った。眠気なんかくそくらえだ、早く終わりにしなきゃ。と、無心でキーボードを打つ。

そんな私の背中を、笹山さんが見つめていたなんて、ちっとも気づかなかった。





「出来ました!」


ようやく完成した書類は、前のものと全く同じかといわれたら頷けないけれど、比べても遜色ない出来だと思う。


「遅い」
「本当にすみま」
「帰るよ」
「せん…っえ?」


笹山さんに書類を出して、二言三言会話して、笹山さんが雑誌を閉じて立ち上がるまでわずか5秒。

「え、帰るって、あのチェックは」
「今何時?」
「22時15分です、はい」
「何で通勤してる?」
「徒歩と電車です、はい」
「こんな暗くなってから女の子一人で帰すほど僕も鬼じゃないってこと」
「…え?」
「あぁもう、送ってってやるって言ってんだよ」

分かったらさっさと支度して、と宣った笹山さんは既に準備ができているようで、私は何がなんだかわからないまま急いで帰り支度すると、笹山さんの後についた。


地下駐車場に止められた車はごく僅かで、その中の一台に近づくと笹山さんは「乗って」と言った。


乗って、って言われても、どこに乗ればいいんだろう。ちょっと悩んでいると「助手席」の声。なんか図々しいかなぁと思ったけれど、笹山さんが言ってくれたのだから大丈夫だろうと助手席のドアに手をかけた。



「家どこ?」
「へ?あ、べつに駅までで」
「……」
「あ、はは。えっと、日吉です」
「カーナビに住所入れてよ」
「…はい」



なんだかそこまでして頂くのは申し訳ないと思った。だって仮にも上司なのに。そんな気持ちに気づいたのか、笹山さんはため息まじりに呟いた。

「僕が勝手にしてることなんだから名前が気にすることないんじゃないの」

勝手にしてるって自覚はあったんですねよかった…じゃなくて、ありがたくお言葉に甘えることにしました。明日のお弁当はちょっとだけ豪華にしよう。


「あの、じゃあ、よろしくお願いします」






私を家まで送ったあと、笹山さんがまた会社に戻ってさっきの書類のチェックや添削をしていたことも、私は知らない。


 



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