無垢は時として




お父さん、お母さん、お元気ですか。
名前は今日も幸せです。


「名前、お風呂入りに行こ!」
「あ、これ書いてから行くから先に行っててくれる?」
「なになに、誰宛の恋文?」
「ちちちがうよ!」
「あははは分かってるって!じゃあ先に行ってるからねーっ」
「あ、凜ちゃん!…もう」

これはそんなんじゃないのに。焦ったせいで筆から墨汁が滴り落ち、紙に大きなシミが出来てしまった。ああ、書き直さなきゃ。

これは恋文じゃなくて、今日の出来事を書き綴っているだけ。誰宛かと聞かれればそれは両親だけど、これが彼らに届くことはもう二度とない。…私が忍術学園に入る直前にお父さんは任務中、お母さんは病気で死んでしまった。
決して裕福な暮らしではなかったけれど、私は家族が大好きだった。良く笑う人たちで、お金などなくても、嫌なことがたくさんあっても、どんなにツイて無いときだって、それは不幸なわけじゃない。生きていることほど幸せなことはないのだからと教えてくれた。それから私は毎日幸せだと呟くようになった。当たり前の幸福を見失わないように。


実質この届かない手紙はただの日記にすぎない。けれど日課になってしまうとなかなか止められずに四年目まで来てしまった。今までの分はちゃんと押入れに全部しまってある。


「えーっと…」

七月十日、快晴
今朝もまた穴に落ちてしまいました。これで三日連続です。こんなことで私は立派なくの一になれるのでしょうか。そういえば今日も落ちた穴の中に三反田数馬君がいました。一昨日も昨日も書いたあの忍たまの三年生です。それから、やっぱりまた綾部くんが現れました。なんだか怒っているようで何故かわたしが居たたまれない気持ちになったのですが、もとはと言えば私と数馬くんが落ちた穴は綾部くんが堀ったものなので怒りたいのはむしろこちらだと思うのです。お父さんお母さん、どう思いますか。私はあとで文句のひとつふたつ言ってあげようと考えたのですが、なんと綾部くんは保健室で傷の手当てをしてくれました。そうしたらなんだか怒る気も失せてしまいました。

今日の朝ごはんは焼き魚定食を食べました。相変わらず食堂のおばちゃんが作るごはんはおいしいです。午前は座学の授業でした。ご飯を食べてすぐだったので眠かったけれどなんとか寝ずに頑張りました。でも隣の凜ちゃんは思いっきり寝ていてシナ先生に怒られていました。思わず笑ってしまったら凜ちゃんに怒られましたがもちろんすぐ許してくれました。それから、



そこまで書いてからふと思った。あれ、なんか最近文章が長い気がする。現にもう半紙三枚目に入るところだ。うーん、それだけ毎日いろんなことが起きているってことかな。どうせその大半は綾部くんのせいだろうけど。
…あ、そっか、綾部くんが意地悪をするようになったから書くことが多くなっちゃったんだ。


「…もう、今日はいいや」

この調子では書くことが多すぎてお風呂に入る時間が無くなってしまう。もう夜も遅いし、これ以上待たせたらまた凜ちゃんを怒らせちゃうから。

手早く夜着の支度をしていそいそと部屋を出ると、前の庭で何かが動く気配がした。今夜は新月で明かりは全くと言っていいほどない。というか、も、もしかして曲者…!?どうしようわたしいま何も武器持ってない、完全に丸腰だ。襲われたら何にも出来ない。自慢じゃないけど体術は毎回補習が必要なほどの腕前なんです!


ザク、ザク

ん?

ザク、ザク、ザク

あれ?
なんか音がする。これは土を掘る…音?
……土を掘る音って!

「も、もしかして綾部くん…?」

ほとんど見えない暗闇に向かってそっと問いかけると、視線がこっちに向いた気がした。

「…おやまぁ、名前」

どこか無機質で呑気な口調、やっぱり正体は綾部くんだった。こんな時間にこんなところで、何をしているの。そう聞いたら、見ての通り蛸壺を掘っているけど、と返ってきた。うん、それはわかってるんだけど。

「私が聞きたいのは、なんでこんな時間にこんなところで蛸壺を掘ってるのかってことだよ」

そう言い直したら、綾部くんは少し考えた後わからない、と答えた。

「気付いたらこんな時間になってた」
「気付いたらって、いつから掘ってたの?」
「授業が終わってすぐ」
「わあ…」

それはさすがに気付くべきだと思う。暗くなってきたなーとかくのたま長屋まで来てしまったなーとか。熱中したら周りが見えなくなる人っていますよね。彼もどうやらそうみたいです。
頬をひきつらせていたら、綾部くんが手招きをした。

「なに?」
「いいから」

???
なんだろう。

素直にひょこひょこと庭先に出たのが間違いだった。

「わあああぁぁあああ!!」
「だーいせいこう」

二、三歩踏み出しただけで地面はもろくも崩れ去り、私は本日二度目のひんやりとした真っ暗な世界にまっさかさまに落ちた。痛い。本当に痛い。…体も、だけど。

「綾部くん」
「?」
「どうして」
「?」
「どうしていつも私を穴に落としたがるの?」
「…」

暗くて見えないけれど、きっと綾部くんは上から私を覗き込んでいるだろうから。上を向きながらそう問えば、さっきより長い沈黙のあと、答えが降ってきた。

「…嫌い、だから」





 



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