俺は綱海さんと話せることだけで満足だった。二人だけで会話するということは、俺にとってこの上ない幸せだった。
「立向居!一緒に練習しようぜ」
「はい!」
俺を練習に誘ってくれるのも幸せなことだ。綱海さんと練習をしながらたわいもない話をする時間はとても楽しく過ぎていく。
「そういえばさ」
綱海さんは思い付いたように俺の顔を見た。
「お前の下の名前どんな漢字だっけ」
俺はええと、と呟いてから
「勇気がある、とかのゆうきです」
といつもの台詞を言った。それに聞かれてもすぐにわかってもらえる名前なんです、と付け加えた。
「いい名前だな」
そう笑顔で言う綱海さんにつられて俺も笑顔になる。
「ありがとうございます」
本心からだった。嬉しかった。でも…
「綱海!」
綱海さんを呼ぶ声が聞こえた。声のする方を見ると円堂さんが手を振っていた。同時にそちらをみた綱海さんはなんだ、と呟く。
「ちょっと来てくれー」
綱海さんは円堂さんに手を振り返してから、こちらを振り返った。
「ちょっと待っててな」
「はい」
綱海さんの背中を見送る。声が聞こえないくらいに離れたことを確かめてから、俺は溜め息をつきしゃがみ込んだ。名前を覚えてくれていなかったことに俺はひどく傷ついていたから。そんな些細なことでも俺は傷付いてしまう。綱海さんには悪気がないんだ。それ故に俺のことをなんとも思ってないことがわかってしまう。
つい前までは、話せたことだけで嬉しくてしょうがなかった。でも欲というものは出てしまって、それだけじゃ満足できなくなった。俺のことを意識して、もっと知ってほしくなった。
綱海条介、とグラウンドの土に書いてみる。俺は綱海さんの名前はずっと前から書けたし、綱海さんとした話の内容は全部覚えてる。でも綱海さんは俺の名前を意識していなかったし、話の内容をあまり覚えていない。最近はそういうことがわかってしまって辛かった。綱海さんと話す度に怖くなった。かといって、俺は綱海さんから離れることはもうできないんだ。
ふと顔を上げると、綱海さんが駆け寄って来るのが見えた。綱海条介と書かれた土を見つめる。消さないのか?俺は。そんな葛藤をしている間に足音が近くまで近付いていた。
「待たせてわりぃな」
「いえ」
少し躊躇ってから、俺はスパイクで綱海条介の字を消した。綱海さんは字に気付いていないようだった。