私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ







 小一時間泣いたらこんなに目が腫れちゃった、なんて言って真っ赤に腫らした目を披露して見せたあの子は腫らしていてもその容貌が崩れることは無かった。私はどうなるだろう。きっと小一時間も泣いてしまったら目も当てられないくらい腫れあがるか、全く以てそうでないかで変化するのはその醜貌だけだと思う。眉間と鼻筋に皺を寄せたぐちゃぐちゃの顔を涙で更に汚すのだ。元からたいして良くもないものを、それ以上にさせたものなんて想像だけでも目を当てられない。そんな奴がどうして黄瀬涼太の幼馴染なのだろう。どうして、一緒にいるだけで彼女だと間違えられるのだろう。こんな穢らしい容貌の女が、黄瀬の彼女だなんてあるわけが無いのに。


アンタまじうざいよ。黄瀬君が同情してくれてるだけだって分かってないの?ブス。アンタが黄瀬君と一緒にいると黄瀬君の価値が下がるんだけど。幼馴染だからって調子乗ってんじゃないわよアンタが黄瀬君とお前の所為で黄瀬君がお前お前黄瀬黄瀬黄瀬黄瀬…
 カーテンの隙間から差し込む陽が白い天井に反射して目が痛い。はっと短く息を吐くと心臓が体内で暴れまわっている音が鮮明に聞こえ出した。呼吸がしづらい。少し蟀谷(こめかみ)のあたりも痛いからもしかしたら熱を出したのかもしれないなと思いながら両腕で体を抱え込むように丸まる。その時にカーテンをきっちり閉めるのも忘れないようにする。大半の光が遮断された部屋は薄暗くて気味が悪くなった。決してそんなことは無いのにじめじめしているように感じるし、まるで阿片窟に放り込まれたようだ。こんな部屋で眠れば、先程のような悪夢を見てしまうのも頷ける。もう何も考えたくなくて頭から布団をかぶり目蓋を強く閉じる。けれどそんなことをしたって、頭に思い浮かぶのは今までに幾度となく言われてきた悪口雑言の数々だけだった。
 どうしてみんな勘違いするのだろう。私は黄瀬のことなんかどうだっていいというのに。黄瀬がオフの日に買い物へ行こうと誘うのなら、私の予定が空いていれば承諾するけれどそうでなければしないし、一度だって黄瀬の突然な誘いを優先させたことは無い。幼馴染だからって黄瀬のことを一度たりとも「涼太」などと名前で呼んだことは無い(同様に黄瀬も私のことを「〜っち」とふざけた渾名でも名前でも呼ば無い)。私たちにとって「幼馴染み」というのは、ただ付き合いの長さを指し示すツールの代わりにしかならないのだ。それなのに女という生き物ときたら、少し他より付き合いが長いというだけで無駄な詮索をし、勝手に思い込み、行き場のなくなった被害妄想を押し付ける捌け口として私を使うのだ。勘違いも甚だしい行為でどれだけ私の体重が減らされたと思っているのか。これ以上細くなんてなったら骨と皮だけの、それこそ幼児向けアニメに出てくる骸のような体躯に冴えない不細工な顔の女になってしまう。女として生まれた矜持(プライド)はあるから、それだけは避けたいけれど。
 目蓋を瞑っていたら眠ってまた悪夢を見そうな気がしてきたので目は開けて、ぼんやりと虚空を見つめる。疲れた、な。背後にある可愛さの欠片も無く、そこら辺で量産されているようなデジタル時計を手だけで掴み、ディスプレイで日付と曜日を確認する。十六日の土曜日(序でに言うなら九時三分)。幸い土曜日であの女の子たちに会うのは二日後になっているし部活動に所属していないから出掛けなければならないこともない。今日はゆっくりと体を休めて回復しよう。そこで ふと、回復してどうするのだろうと思った。回復してしまえばまた月曜日から彼女らに充分になった神経も体力もすり減らされ、いつも通りの生活がサイクルするだけだ。回復して得になる理由が何もない。だらだらと無気力に生き続けるだけの毎日と永遠に付き合わなければならない。ならばいっそ派手に遊び散らかして疲れ切ったまま彼女らと対面しようか。そんなことをすれば、すぐに負けてしまうのは目に見えているけれど、どうして私は負けたくないのだろうか、どうして私が、こんなにも考え込まなければならないのだろうか、夢にまで出てきて不快でしかない彼女らのことを。
 知らず知らずのうちに零していた涙はお気に入りの黒い枕を余計に黒ずませた。もういいや、泣いてしまえ。あの子みたいに泣いてマイナスにならないことは一つもないけど、どうせ明日は日曜日で今日の予定は何もなくて つまり自由気ままにしてていいのだから。ただ、泣いていることを家族に知られたくはないから嗚咽を噛み殺すことはする。出勤してしまっているのか階下のリビングで談笑しているのかは知らないけど、私の部屋の周りは静かだから嗚咽を殺すのはとても大変だ。涙だけは堰を切ったように流れ落ちて枕を湿らす。きっと私は今押さえつけている嗚咽のような存在なのだ。涙のように自由に過ごせないし消えることも出来ない。我慢して抑え付けられてそれでも自由になりだがっている嗚咽、それなんだろう。ああ、くやしい。あんなやつらにこんな風にされていることが、途轍もなく悔しい。
 噛み殺して余計に辛くなった呼吸を抑えながら鼻もすすると、部屋のドアがノックされた。「は、 い。」辛うじて返事をすると外側から黄瀬の声が響いた。

「これからちょっと買い物行かないっスか。」
「むり、 熱あるみたい、だし。」
「……声、大丈夫っスか?」

「大丈夫じゃないから熱が出でんでしょ。」と切り返すと黄瀬はまた日を改めると言った。いつも黄瀬は突然やってくるのだから困る。いちいち私に構わなくたっていいのに。私と居たら黄瀬の価値が下がるらしいしね。全く、黄瀬の勝ちが私如きの存在で下がるだなんて馬鹿げている。そんなもので下がるほど黄瀬は矮小なものではないというのに。
 私は自分が彼女らの捌け口にさせられている原因である黄瀬を恨んだりするようなことは一度もしたことが無い。というか私が黄瀬を恨むのも彼女らが私を恨むのも、どちらもお門違いだというものだし意味が無い。むしろ私は黄瀬を尊敬している。全てに於いてほぼ何でもこなせるところだって好きなことには最後まで夢中になれるところだってだ。きっと彼女らも似たようなものなんだろう。なのに、どうして私は彼女らと同じように黄瀬に接せられないのだろうか。幼馴染だからかな、不細工だからかな。噛み殺せなくなった嗚咽が情けない声と一緒に外へ飛び出る。息が上がって苦しい。正常に呼吸が出来ない。吸うのも吐くのも全部てんでバラバラで不規則になる。苦しい苦しい。なんだ、抑え付けられなくなって自由になったって、私は結局こんな立場にしかいられない存在なのか。

「ほら、ちゃんと息吸って。」

 酸欠で目の前が明滅しだした時、何かに強く引っ張られた。やさしく片手で髪を撫でてあやしながら上体を起こされて後頭部を固定される。暴れる心臓と酸素は制御が利かなくて、いくらあやされたって落ち着かないのを分かっているのか、髪だけでなく背中も撫でられた。

「たくさん息吸ってゆっくり吐いて、深呼吸して。ほら、俺の呼吸に合わせて。」

 固定された後頭部は耳が心臓の音を聞き取れるような位置にきちんとされていた。一定の鼓動を刻む心臓と、ゆっくり肺と腹筋が膨らんだりしぼんだりするのを感じていると段々と呼吸が落ち着いてくる。頭から背中を撫でる手がやさしい。

「そうそう、大丈夫っスよ。」

 耳に直接吹き込まれる声は慈愛に満ちていて意識を手放しそうになった。そんなやさしい声を聴くのは本当に久しぶりなのだ。その声の主に縋ろうとして持ち上げた手を胸元でぎゅっと握って押し留める。縋ってしまいたいのは楽になってしまいたいからだけど、そんなことは出来ない。
 ほんの少しだけ荒い呼吸をしながら目の前の人物に疑心を向ける。

「なんで、いるの。帰ったんじゃ 」
「ずっとドアの前にいたんスよ。なんか体調不良ってだけじゃなさそうだったんで。」
「…そ。じゃ、もういいからさっさと買い物行ってきなよ。」
「そうはいかないっス。」

 顔を覗き込むようにして身を屈めてきた黄瀬に、思いきり顔をそらして布団で壁を作るけれど呆気なく布団の壁は破られてしまったのでせめてと両腕でバリケードを作った。

「なんで顔見せてくんないんスか。」
「不細工なのをモデルに見せるとか死ぬわ。」
「はあ?」
「どうだっていいから離れてよ。熱移るよ?」
「どうだってよくねーよ。」

 顔を背けたままの状態で黄瀬が抱き着いてきたので、黄瀬の顔が側頭部に来る。長い手足で丸ごと絡み付かれてしまったので動こうにも微動だに出来ない。
 というか、どうでもよくないとはなんなんだ。黄瀬にとって私が不細工なことなんてどうでもいいことだろう、今に始まったことでもないのだし。訳が分からない。こういう風なことをしてくるから勘違いされるのだ。するならするで、公言しておけばいいものを(公言したからといって現状打破に繋がるとは到底思えないが)。

「いじめられてんの、俺の所為っスよね。何で俺に何も言わねーの。」
「黄瀬が悪いんじゃなくて、あの子らが馬鹿なだけじゃん。わざわざ黄瀬に言う必要ないし。」
「こんなに泣いてんのに何言ってんの?その熱だって、精神的に参ってたからじゃないんスか。」

 攻め立てる黄瀬の声からはあくまで私へのやさしさが感じられる。止めてよ。そんなやさしさは要らない。もう求めてない。求めていた頃の私はぐしゃぐしゃに潰して千切って芥箱に捨てたんだ。要らない要らない必要ない!天秤が傾いてしまってはバランスが悪いのと同じように私にそれは必要ないこれ以上アンバランスさを引き立てさせないでよ。

「大体考えてるようなこと分かるから言っとくっスけど、釣り合わないだのなんだの考えてるってことは、まだ意識してもらってるんスよね。
昔みたいに俺に接してくれないのは周りの所為だって分かってるし、仕方ないことだとは思うけど、それの所為で俺の気持ちまでなかったことにされるのは正直我慢ならないんスわ。」

 昔の黄瀬と私は今と同じでお互いを名前で呼び合ったことは無い。私が黄瀬と呼べば黄瀬も同様に私を呼ぶし、その逆もまた然り。何故かって、私の呼び方にも黄瀬のにも周りからじゃ理解出来ない親密さがあったからその呼び方で充分だったのだ。別に何か言葉にしてそういう仲になったわけじゃないし、なんとなくそうしていただけ。周りに耐えられなくなった私はそこに付け込んで逃げた。だって、一度も言葉になんてしたことは無いから言質なんて取れないし、スキンシップだって思春期の男女なら避けることは異常じゃない。
 そこまでしたのなら 私は、最後まで逃げてしまえばよかったんだ。最後まで醜い女のまま、穢らしく黄瀬の中で終わればよかったのに、欲張ったから私は神奈川の海常高校に通っているし黄瀬と買い物にだって出かけるしこうして抱き締められたって抵抗しないのだ。

「…ごめ、ん。ごめん、ごめんね ごめんなさい。」
「謝るんなら腕退けてくんないっスか。」
「不細工が酷くなってるから、嫌だ。」
「さっきから不細工不細工って…。誰に刷り込まれたんスか。俺一度もそんなこと言ったこと無いっスよね。」

 そうだ。黄瀬には一度だって言われたことは無い。いくら泣き喚いてみっともない顔をしたっていじめられて無様な格好になったって、一度も黄瀬は言わなかった。それでも、だ。刷り込まれたからそう思っている部分もあるだろうけど、それでも自分の容姿は自分が一番よく理解している。
 依然、固められたままのバリケードに黄瀬は何もしない。私が自分から出てくるのを待っている。いつも黄瀬は私が自分で動けるようにと整えてくれている。密着した体からは黄瀬のやさしさと気持ちが伝わるし、出てこられるように背中を何度も撫でながら腕の力も緩めてくれている。これだけされて、自惚れないというのは我がままだろうか。
 バリケードが黄瀬に縋ると、側頭部で待機していた黄瀬の顔が正面にやってきた。それは正しく美貌だ。整った眉に長い睫毛に意思のある瞳に通った鼻筋に形のいい唇。全部が揃ってやっと黄瀬が作り出される。
「待ち草臥れたっスよ。」と言いながら私の醜貌に臆することなく、一つ一つのパーツへ唇を落とす。黄瀬の唇が落とされたそこからやっと醜さが消されていくようだった。

「こんなに腫らして、どんだけ泣いたんスか。」
「分かんない。」
「今日は微熱とはいえ発熱してるし、色々と無理みたいだから、明日一緒に出掛けよう。」
「ん。」
「服、俺が見立ててもいいっスか?」
「可愛くしてね。」
「了解。」

 髪、生え際、額、右の眉、左の眉、右の睫毛、左の睫毛、鼻、頬…とひとつずつやさしく唇を落とした黄瀬は、最後に唇へと落とした。じりじりと焦がれる目の奥と胸は、熱や白い天井の所為じゃないことだけが確かだと教えるのにはそれが十分なものだった。
 満足するまで唇を落とし切ったらしい黄瀬は「ほら、綺麗になった。」と私を包み込んだ。








醜さを知らないものは美しさを知らない。つまり美醜は紙一重なのである。
20120917