私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ


 彼女は僕のことを「クロ」と呼ぶ。それはまるで飼い猫を呼んでいるかのように優しく穏やかに呼ぶのだ。
 別にこれは不思議なことではない。彼女はひとを呼ぶとき、決まってそのひとの苗字の頭にある二文字をとって呼ぶのだ。だから「黒子」である僕は「クロ」と呼ばれる。そこに不思議なことは何もない。あるとすれば、僕の耳の方なのだろう。彼女が青峰君や桃井さんを「アオ」「モモ」と呼ぶのと同じようにして僕のことも呼んでいるというのに、どういうわけか、僕の耳には彼らを呼ぶとき以上に優しく呼んでいるように聞こえる。まるで特別なものであるかのような――。


「クロ。」「なんですか?」「呼んでみただけ。」「そうですか。」
 前言撤回。僕が彼女にとって特別なものであるのではなく、彼女が僕にとって特別なものである。つまり、僕は彼女をそういう意味で慕っている、のだと思う。他人にそういった感情をはっきりと懐いたことがこれまでに無いのでよく分からないけれど、多分これであっている。
 優しく僕を呼び微笑む彼女には日向が似合う。木々の葉のカーテンをすり抜けて、丸みを帯びた陽光の射す日向が一番ぴったりだと思うのだ。丁度、彼女とバスケットボールを一つだけ挟みながら隣同士で座っている、この場所のような。

「クロ。」「なんですか?」「何考えてたの?」「何か考えていたことには考えていましたが、どうして考えていると分かったんですか?」
 きょとんとすると、僕と同じように頬杖をつきながら彼女は「何故でしょうか?」と意地悪に笑い、クロのことはお見通しなんだからね、と付け足した。その一言に僕がどれだけ一喜一憂するのか、君は知りもしないのだろうな。いや、それではお見通しとは言えないか。
「君には日向が似合うなと思っていました。」「突然だね?」「はい。でも僕の中ではちゃんとこうなった途中式もあるんですよ。」「気になる!教えてくれる?」
 期待を詰め込んだ可愛らしい表情をされて意地悪が出来るほど、僕は我慢強くない。内緒話をするように彼女の耳元へ顔を寄せ、そうっと教える。
「僕を呼ぶときの雰囲気があまりにも優しく感じられて、それが日向の温かさに似ているような気がしたんです。」
 彼女が僕を呼ぶ雰囲気が伝わるように、柔らかくゆっくりと言ってみた。自然と微笑んでしまったのは、彼女とこの暖かい木漏れ日の所為としておこう。
 耳元から顔を離すと、何故か今度は彼女がきょとんとしていた。
 目をぱっちりと開いたまま、僕と代わりばんこになって耳元に彼女が顔を寄せてきたので方耳をそちらに向けると
「よく分かったね。クロってもしかして超能力者?」と返されてしまった。
「クロが気付いた通り、私 クロを呼ぶときは出来るだけ優しくしてるの。」「…どうしてですか?」「…言わなきゃだめ?」
 彼女が笑う度に掛かる吐息がとても甘美なものに思える。
 まわりに誰かいるわけでもないのに、僕らは互いの耳に顔を寄せてひそひそと話す。それが糸電話で話しているような距離感で、二人だけの秘密を話しているようで、どうしようもなく胸がくすぐられる。

「なんの用事もないのに、クロと二人で体育館にいる理由が答え、かな。」
 首を少し傾げながら「わかるよね。」と若干疑問を含ませた彼女に意地悪をしたいと思う。大丈夫、上手くいけば僕はそんなに我慢をすることもないし羽目を外したって構わなくなる。
「ちゃんと君の口から言ってもらわないと分からないです。」「……クロの意地悪。いいよ、ちゃんと言ってあげる。あのね――」
 彼女がその先を言う前に、僕は少し腰をひねって彼女の後頭部に手をまわし首筋に固定した。息を呑む感触が伝わる。
「すみません。こうやって君に触れるために意地悪しました。」「…狡い。」「お詫びと言ってはなんですが、君の言葉の続き、僕が言ってもいいですか?」「…よろしくお願いします。」
 後頭部にまわした手で髪を撫でると筒状のタンパク質で出来ていることを忘れそうになるほど柔らかかった(紫原くんならきっと綿菓子で出来ていると言うに違いない)。先程のようにうまく伝わればいいと思いながら、慎重に、僕の気持ちを詰め込んでくちをひらく。

「僕は君のとなりにいたい。」

 この言葉も、柔らかく言えただろうか。遠慮がちにまわしたくせに、しっかりとシャツを掴んだ腕は陽炎なんかじゃなくて胸が満たされるようだった。
「…じゃあ影に隠れないでね。」「もちろんです。」「テツヤだいすき。」
 この胸をくすぐるのは君だけで充分だ。




花束の水槽を泳ぐ深海魚
20120830