私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ



(その笑みは獣のものか支配者のものか。
どちらかと聞くのは愚問である。
何故なら――)


 折って肘の辺りまで捲り上げていた制服の袖をすべて元通りにする。わざとサイズの合っていないシャツを買ったので袖が余って指はおろか、短く揃えられた爪の先さえのぞかなかった。サイズの合っていないシャツを購入したのは徐々に止まりつつある成長を見込んでのことではなく、単に彼女が寒がりだからというだけの理由だ。それでも夏場には暑さ以外を感じさせないだろうそれは文明の利器であるエアーコントローラーという代物によって彼女に年中重宝されていた。
 いくらか穏やかになった寒気は、再び彼女の舟を睡魔の海の中へ漂わせようとしていた。重くなる目蓋を出来る限りひらいて返却カウンターの辺りにある時計を見る。十八時二三分。彼の部活動が終わるまでまだ時間があることを確認すると、彼女は迷わず舟を漕いだ。
 船がレム睡眠によって創られた対岸に着いたとき、彼が図書室の戸をスライドさせたことなど、彼女は知る由もない。


【彼は彼女のその左手に存在するうちの一本の指に呪(まじな)いをかけた。】


 漕いでいた船が元の岸に戻ってきたころ、彼女はゆっくりと目蓋をひらいた。最初に視界に映り込んだのは教室の蛍光灯がやけに目立つ夜の色で、それを見て漸く眠気でぼんやりとしていた脳味噌が冴えた。椅子と床を思い切り擦らせて立ち上がり時計を見ると、時刻は二〇時七分を指していた。彼の部活動が終わる時間を少し過ぎている。慌ただしく制定の革鞄を手元に引き寄せると、その隣に寄り添うようにして同じ形の鞄が並んでいた。「起きたのか。」不意に聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。視線をやると、奥の本棚から姿を現したのは赤い髪と虹彩異色症が目を引く少年だった。

「もう部活は終わったの?」
「ああ。姿が見えないから来てみれば、案の定眠りこけていたな。」
「ごめんね。」
「気にしないでいい。いいものが見られたしね。」

 彼は唇で弧を描くと、彼女の不自然な方向へ撥ねた髪を柔く一束掴んだ。それが寝癖だと気付くのに時間はかからず、慌てて髪を抑えようとすると彼女の左手――正確には指――に痛みが駆け抜けた。驚いてその手を見ると、ちょうど薬指の根元が点々と赤を散らしながら紫に変色していた。
 覚えのない姿になった自分の指に、目を白黒させる彼女とは裏腹に、彼は満足げに目元にも弧を描いた。

「エンゲージリングの代わりだよ。」
「…征十郎らしいのだね。」
「気に入らない?」
「まさか。」

 彼女は不気味な色に染まった其処へ愛しげにキスを落としながら、エンゲージなのは嬉しいけれどこの色彩はどうなのかと疑っただけだよと伝えた。その仕草がこの上なく甘美に思えた彼はゆっくりと彼女の方へ身を乗り出し、手を取る。が、彼女はすいと手を退けてしまった。
 彼が訝しげな視線を遣る。視線の鋭さに耐えられなくなった彼女が違う方向へと視線を変えると、先程までバスケットボールを掴んでいた手が彼女の顎を掬い上げ、視線を元に戻させた。暫く見つめ合っていた二人だが、結局彼女が根負けして口を開く。

「…あんまり綺麗な色じゃないから、見られたくない。」
「なんだ、やっぱり気に入ってないんじゃないか。」
「そうじゃなくて、征十郎がくれたものだから嬉しいには嬉しいんだけど、その、グロテスクな色味だから。ちょっと。」

 彼は彼女の顎から手をどかし、代わりに左の手を取ると、その薬指を先程したように根元まで口に咥えた。甘噛みをしながら時折きつく噛み付く。羞恥で彼女の頬が赤く、自分の色に染まってゆくのを楽しみながら何度も繰り返す。新しく着け直されたそれは、彼の唾液も絡まっており彼女をいやらしい気分にさせる。
 百獣の王の様に総てを従える赤い彼は、リップ音をたてながら彼女の薬指と何もなっていない、うつくしい小指に恭しくキスを落とした。

「白い肌に映えてとても綺麗だ。」

(彼女を縛るものであることに変わりはないからだ。)




20120810
企画サイト「指先」様に提出。