私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ


 緑間君がテーピングをしていない。
 それは、まわりから何があっても動じない「鉄面皮」だと呼ばれている私にとって衝撃的なものだった。
 教室に入って彼と高尾に挨拶するや否や、あんぐりと口を開けて派手な音をたてながら鞄を床に落としてしまった私を見て高尾は大笑いしてきた。それにはっとなって急いで鞄を拾い上げ、大股でずかずかと二人の前まで行ってた顔を殴ると「いってー!」だのなんだの言って喧しくなった。でもそんな高尾はどうでもいいのだ。問題は緑間君である。

「テーピングは?」「なんなのだよ。いきなり。」「だーかーら、テーピング!何で巻いてないの?」「…。」

 えっ、どうして黙るの緑間君。心なしか表情が険しいし、聞いてはいけないことだったのだろうか。テーピングしてない理由を聞くのがそんなにもタブーだったなんて知らなかった。
 すると顔を顰めている緑間君と、それにおろおろしている私を見て高尾が盛大に噴出した。なんなのさっきから。笑い過ぎだ。

「真ちゃんってば傘に噛み付かれたんだよ。」「か、噛み…?」「なんか ちょーど引っ掛けたみたいでさ。思いっきりいっちまったんだよ。」「ほう…。」「替えもねーからあとで保健室空いたら貰いに行くしすぐに巻かれるぜ?」「なるほど。」「余計な事をしゃべるんじゃない。」

 ニタニタ、ニマニマと表情を崩している高尾は本当に楽しそうだ。まあ理由が知れたから何も言わないでおくけど。
くいっと眼鏡のブリッジを押し上げた緑間君は高尾を睨みつけている。さっきのに上乗せして表情が険しくなっていたから、テーピングとれたのそんなにも嫌だったんだなと痛感。指を大事にしてるのは知ってたけど、そこまでなんて知らなかった。

「それよか、真ちゃん良かったな〜?こんな彼女がいて。」「…どういう意味なのだよ。」
「何それ高尾私のこと乏してるの?」「だってよ、真ちゃんのこととなるとめちゃくちゃ心配してくれんだぜ?普段の鉄面皮はどこへやら。」

 百面相してたしな。と加えられた高尾の言葉に私の顔は瞬時に赤くなった。ばか、こんなとこで赤くなんかなったらそれこそ百面相じゃないの。緑間君の前なのに恥ずかしい。
 おさまらない赤色に心臓が反応しだして、余計に赤くなる。嗚呼、恥ずかしい恥ずかしい。頭を押さえてきゅーっと目を瞑ると高尾が笑ってるのを想像してしまった。ちくしょう、お前のせいだ。

「そんな照れんなってー。」「うるさい黙れ。」「つか、これってチャンスじゃねーのー?」「はあ?」「こないだ言ってただろ。真ちゃんの手に直に触れてみたいって。」

 ぼそぼそと作戦会議のように声を潜めて話していると、またしてもこいつは爆弾を投下してきやがった。なんてことしてくれるんだ。私は今、口から心臓が飛び出そうで、その飛び出た心臓が地震を起こしてしまいそうなほど、動悸が激しいというのに。

「いっ、いい!いらない!!」

 声を潜めていたのに心臓も感情も激しく動いてしまって声が大きくなった。びっくりしたのか緑間君は目を見開いている。本当に下睫毛長いな。ってそうじゃない。私、今めちゃくちゃ変な子になってる。

「どういうことなのだよ高尾。」「うぇっ。何で俺なの。っつーかもしかしてさあ。」「聞こえていたが?」

 さ い あ く だ 。
 嘘でも聞こえてないって言って欲しかったな!これ以上私の心臓もたない。
 なのに能天気な高尾の「じゃー俺はそろそろ退散するわー。」という言葉を最後に、早朝の教室には私と緑間君の二人だけになってしまった。そんな微妙なところで空気読むんじゃない。

「…なんでいらないのだよ。」「え…。言わせるの…。」「正直あまりいい気分のものではなかったのでな。」

 …そりゃね、ついこの間までは緑間君のテーピングが巻かれていない手に触ってみたかったんだけれども。気付いてしまったのだ。そんなことしたら意識し過ぎてまともでいられなくなる。“緑間君”に“素手”で“触れる”だなんて思うと

「死んじゃう…。」

 小さく小さく呟いたのに、緑間君には聞こえていたようで布が擦れる音がした。ここには私たちしかいないわけだから、必然的に緑間君が動いたというわけで。呆れられたかな。まだ朝なのに混乱してばっかりだ。全部高尾の所為にしてやる。

「いつまでそうしているのだよ。」「う、わっ。」

 ぐいっと引っ張られて緑間君に抱きつく姿勢になった。なにこれなにこれなにこれ!恥ずかしい!「ああああああの、みどりま、く、」「死んでないじゃないか。」だって物の例えだし!

「みっみみ、みどっ、みどりまくんっ!は、はなし、」「その呼び方を止めろ。」「はいぃ?」「その余所余所しい呼び方を変えたら放してやるのだよ。」

 なんて呼べばいいんだろう。緑間、とか…?でもこれも十分余所余所しいよね?じゃあ名前で呼ぶってこと?ハードル高い。でもこれ以上は本当に死んじゃいそう。
 無理やり心臓を抑え込んで背の高い緑間君を見上げると端正な顔と視線が絡み合った。心臓を吐き出さないように慎重になりながら丁寧にくちをひらく。

「真太郎、は、はなして…。」「……………。」「えっ、駄目だった!?」「…いや、余計に放したくなくなっただけなのだよ。」「…それは困る、な。」

 もう私の心臓は保ちそうにありません。鉄面皮だって、すきなひとのまえじゃ形無しなんです。真太郎から送られてくるものを遮断しようと、目を瞑って耳も塞いだ。すると真太郎はあろうことか私の後頭部をつかみ、自分の胸に押し付けたのだ!折角塞いだ耳も瞑った目も一瞬にして意味のないものになってしまった。目を瞑っていれば真太郎を意識し過ぎてしまうし、耳を塞げば自分の鼓動の早さがクリアに伝わってくる。

「聞こえているか?」「な、に が。」「心臓の音に決まっているのだよ。」

 は?心臓の音?どこかの誰かさんの所為で五月蠅いくらいに聞こえていますけど?えっ、意味が違う?どういうこと??
 何が何だか分からなくなって一瞬呆けてしまった。その時に少しだけ落ち着いた鼓動によって、やっと今まで邪魔されていた音が聞こえてきて真太郎の言葉の意味が分かった。

「真太郎、心臓はやいね。」

 私の鼓動に勝るとも劣らないそれは、真太郎の顔や耳を赤くさせている要因だった。なんだか一杯一杯になっていたのは私だけじゃなかったのだと確認できて少し余裕が生まれる。溜め込んでいた息を吐いてぐりぐりと真太郎の胸に頭を押し付けて五月蠅い振動を聴いていると、テーピングの施されていない手が――真太郎の素手が――私の頭を撫でて髪を何度か梳いた。
 私たち似た者同士だね。

「俺も死んでしまいそうだ。」



20120707/小鹿のつぶらな瞳に映る夢
誕生日おめでとう。