私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ



 自慢の姉はもう隣にいない。それは、ただ単に私が日本から海外へと出てきたからだ。空港に着いてもずっと「本当に大丈夫なの?」と気にかけてくれた優しい姉は、イタリアに来てもう5年になるというのに未まだに1ヶ月に1度、必ず国際電話をかけてくれる。優しさが重たく感じるわけではないけれど、そこまで心配させるほど子供ではないという気持ちも少なからずある。
「じゃあね、風邪ひかないで。」という言葉で役目を終えた子機を充電器に差し込むとソファから笑い声が聞こえてきた。電話をしている最中にも時折笑っていたものだから、てっきり私はテレビに笑っているものだと思っていたのに、どうやら笑い声の主は私と姉との電話に笑っているようだ。
「君は随分とお姉さんに愛されているなあと。」
「だからってそんなに笑わなくたっていいじゃない。」
 このやりとりを知って実際にその現場を見るようになってから2年は経つというのに、彼には今も笑ってしまうくらい可笑しなことなのだろうか(いや、可笑しなことだから笑われてしまうのは仕方のないことなんだけれども、いい加減慣れて欲しいというか。本人に面と向かっては言えないけれど)。
「お姉さんというよりもお母さんの方がしっくりきてしまうよ。」
「それは‥否定できない、かな。」
 肯定できない恥ずかしさに視線が泳ぐとそれは彼の優しい笑いに包まれた。


 彼女がこうも私に対して甘いのは、総じて私の所為だ。幼い頃の私は年の離れた姉に依存しており、姉が学校へ行こうとすれば泣きついて邪魔をしたし、それ以外の時はいつだってベッタリと張り付いて常に隣をキープしているという具合だった。いつでも優しくて容量の良かった姉は自分のことをこなしながら私の面倒も見てくれていて、そのおかげで姉には私のそそっかしい部分をすべて曝けだしてしまうことになった。その頃は心配してもらえるのが純粋に嬉しかったからいいものの今では依存から抜け出して成人しても心配されるという大変恥ずかしい事態になってしまっている。イタリアに来たての頃なんかは不安になればすぐに背筋をピンと伸ばして真っすぐにまえを見据えた凛々しい姉の姿がちらりと脳をよぎっていたけど、今では真っ先にフィディオが思い浮かぶようになった。
 フィディオと出会ったのはイタリアに来てから2年目の春のことで、当時借りていた部屋のお隣さんだった。その時はまさか彼が有名なサッカー選手だなんて思ってもみなかったし、こうして2人で暮らすようになることだって想像していなかった。だからこそ、こうしてフィディオが最初に思い浮かぶのはとても幸せなことだし、もう私に構わなくたっていいのだと姉に知ってもらいたい。
 優しい自慢の姉は、私の中で依存対象から理想の人の一人になっている。


 肩越しに伝わるフィディオの体温は聖母のように温かくて、海のような優しさをくれる。カーテンに遮られきれなくて溢れた日だまりが部屋の中に差し込んできた。まだ寒いけれどこんな天気の良い日には思い切り洗濯をしたい。そしてその後はフィディオと走り回りたくなってしまう。
「ちょっとは我慢してくれよ。俺だって疲れはあるんだから。」
「歩けるようになるまでには、その疲れもリセットさしておいてね。」
「もちろん。」
 ちゅっと可愛らしく額に落とされたキスからは私一人には収まりきらない愛が詰まっていた。くすぐったさに身をよじらせてもっとくっつくと「君も早く伝えるんだよ。」と言われた。‥うん、分かってるよ。潮時って言い方はどこかおかしいけど、そうなのかもしれない。返事を濁していると笑いながら「俺から言ってあげようか?」なんて言ってからかわれた。
「‥だめ、ちゃんと私から言うから。」
「お姉さん、きっと驚くだろうね。」
「フィディオは言われてどうだった?」
 フィディオに伝えたときは電話越しで表情を伺えなかった。本当はきちんと顔を見て言ったほうが良かったのだけど、サッカーの遠征中で帰ってくるのは2ヶ月先のことだったから電話で伝えたのだ。これから姉にも電話で伝えなくちゃならないからフィディオからの参考経験が欲しい。
「驚いたさ。でも、そんなことよりも嬉しさの方が大きかったよ。」
 遠征を1ヶ月早く切り上げるくらいにねと付け加えたフィディオに頭を撫でられて、あの時は本当にヒヤヒヤしたなあと思った。サッカーに詳しいわけではないけれど、遠征を切り上げるなんてよっぽどのことがない限り普通はしないだろう。「そのよっぽどのことだったからだよ。」と言われてようやく不安定だった気持ちに踏ん切りが付いた。
「今晩きっとかかってくるだろうから、その時に言うね。」
 でも、もし余計に心配されたらフィディオがどうにかしてよと言うと言葉は考えておくとまた笑われた。


『大丈夫?風邪とかひいてない?』
「大丈夫だよ。姉さんは?」
『もちろん、私は平気よ。』
 いつもと同じように始まる会話はもう何回やったのか覚えていない。つらつらと耳に届く姉の言葉はすべて私を心配するものだった。それは尽きることを知らないんじゃないかというくらいに毎回内容が違う。よくもまあ、これだけ不安を作らせたな過去の私。なんて思いながら相槌をうっていると受話器の向こうから幼い声が少しだけれど聞こえた。それを聞いて、姉の言葉を遮るように話しかけると姉は不思議そうな声を出した。
「今までありがとう。もういいよ。」
『‥なに?』
「私もね、姉さんと同じになるの。」
『‥‥?』
「私は本当に大丈夫だからあんまり心配しないで。でないとお腹の子に笑われちゃう。」
 受話器からは子供の高い声しか聞こえてこない。姉さんだってお母さん大丈夫なの?って子供に言われたくないでしょう。その子に言われたらどう?私なら恥ずかしくって顔から火が出るくらいだ。ちなみに母さんたちにはもう言ってある。日本で生むのかイタリアで生むのかだけ聞かれた。多分それは私の初産のお手伝いに行けるかを考えるためだと思う。
 黙ったままの姉の沈黙が痛い。


 ひょっこりとリビングに現れたフィディオはソファに座っている私にブランケットをかけると隣に座った。触れた手が冷たくて外にいたことが分かる。どこにいたのか尋ねるとフィディオは公園でサッカーをしていたと答えた。何もわざわざ夜にやらなくたっていいだろうに。
「もし男の子だったら一緒に練習したいじゃないか。」
「だからって今しなくたって。気が早いよ‥。それに女の子でも活発な子だったら一緒にしてくれるよ。」
 そういえば君のお姉さんはどうだった?と話をすり替えたフィディオを横目で見ながら結果報告をする。姉は「そうよね、あなたももう一人で平気だものね。フィディオ君もいることだし。」と笑っていた。『でも大丈夫なの?初めてでしょ?日本には帰ってこないの?』と続けた姉には思わず笑ってしまったけれど、日本には帰らないと伝えた。だってここにはフィディオがいるから不安なことなんてないし、日本に帰ったら姉さんが付き纏ってくるかもしれないと冗談めかしておいた。
 それを聞いたフィディオは微笑みながら頷いて優しく私のお腹を撫でた。自慢の姉はもう隣にいない。だけど私にはフィディオがいるしこれから生まれてくるこの子だっているのだ。なにも寂しいことなんてない。
「‥あったかいね、フィディオ。」
 ひと足早い春はもうすぐそこまで来ている。




20111225
羊水におよぐクジラの唄