私のいた時間よりも私のいない時間を愛してください | ナノ




 溶けちゃいそう。
 そう言うと汗をかいたグラスの中の氷がカランと涼しげな音を立てた。背中と額にじわりと汗が滲む。
 ごろりとフローリングに寝転ぶ前から蝉の鳴き声はずっと続いていてまだ一度もやんでいない。こんな暑いのに頑張るよなあ、尊敬しちゃうよ。蝉にはなりたくないけど。嗚呼、でも、蝉になったらこんな面倒なこともしなくっていいんだよね。それはそれで羨ましいなあ。アイスが食べられないのと孝介と喋れないのは嫌だけど。
「‥お前、テキスト進んでねーじゃん。」
「も、むり。あつい。溶けちゃいそう。」
 部屋に戻ってきた孝介を下から眺めると「今すぐ起き上がんねーなら踏むぞ。」と脅されたのでぱっと飛び起きる。ちりんちりん、と十数分振りに鳴った風鈴の音は少しさびれていて、涼しさは運んでくれなかった。じわりと滲んだ汗が玉になりだすと、孝介がタオルを渡してくれた。
「あー、そっちの窓閉めてくんねえ?」
「りょーかい。やっとクーラー‥。」
「さっきニュースで37°cつってた。」
 さんじゅうななどしー。その温度に気が滅入りそうになった。いや、もう滅入ってるのかな?節電を考えて昼過ぎまでは出来るだけ我慢すると決めたのは地球に優しかったけど、私たちには酷だった。孝介がリモコンを操作してクーラーを作動させる。ふわあ、ひんやり。蝉じゃなくてペンギンになりたいなあ。嗚呼、でも、ペンギンは空を飛べないし、孝介と喋ることも出来ないよね。蝉とあんまり変わらないなあ。
「ほら、クーラー入れたんだから勉強しろ。」
「ういす。」
 ぐいと孝介が渡してくれたタオルで汗を拭いて、途中放棄したままのテキストに向き合う。嗚呼、ほんと受験生って面倒臭いなあ。これを頑張ったって孝介と同じ大学に行けるわけじゃないのに、なあ。
「お前下んねえこと考えてんだろ。」
「泉さんエスパー?」
「問題を考えろよ。」
「だって、」
 孝介は浮気しないで遠距離恋愛出来る自信あるの?
 忙しなく空欄を埋めていた孝介の手がぴたりと止まった。入れ替わりで私がぱっぱと手を動かして白いテキストを羅列で黒くしていく。お互い、解いている冊子は違う大学のものだ。私は県内のそこそこいい大学を志望していて、孝介は野球で推薦をもらって県外の大学に行く。県外といっても自宅通学するらしいから会えないわけじゃない。だけど通学時間なんかを考えたら会い辛くなるのは確定している。
「お前は自信ないんだ。」
「‥‥自信というか、不安、かな。‥孝介はどうなの?」
「俺?するかもしんねえな。」
 止まっていた孝介の手はまた動き出した。私の手は止まってしまい、俯く。
 私が遠距離恋愛に不安を抱いているのは、孝介が浮気してしまわないかということ。未だに後輩からの告白は絶えないくらいだし、彼氏だからとかそういう贔屓目なしに孝介はモテる。だから、私は行かない孝介だけが行く大学で知らない女の子が孝介の優しいところに付け込んで来たら、と思うと不安でしょうがない。それを知って逆上して自分が浮気をしないとも言い切れない気がして怖い。これって、やっぱり自信がないのかなあ。
「‥‥って言えるくらい余裕があればお前も俺も悩まねえんだけどな。」
「え?」
 顔を上げると孝介は女の子みたいな大きい瞳でこちらをじっと見つめていた。握っていたシャープペンシルをノートの上に置いて頬杖をつく。
「お前に一途過ぎてほかの女に浮気してる余裕がねえよ。」
「え と、それは、どういう‥。」
「だから、お前の事が好き過ぎて、逆にお前が誰かに取られるんじゃないかって心配でほかの女なんか見てらんねえって言ってんの。」
 分かれよ、と少しそっぽを向いた孝介の耳はほんのりと赤くなっていた。なんだ、愛されてることを再確認しただけで私が心配するようなことは一つもないじゃん。ここに田島とかがいたらバカップルって囃し立てられるんだろうなあ。
 ちょっとだけ恥ずかしくなってまた俯きながら「孝介ありがとう。」と小さく呟くと「おー。」と無愛想な返事が返ってきたけど、愛されてるって分かったから不安になることは無い。嬉しさを噛み締めているとくしゃくしゃと頭を撫でながら「顔上げろ。」と言われたので、そうすると撫でていた手が頬に滑った。ぐっと引き寄せられて孝介が机に乗りかかる。

「‥ほんと、好き過ぎて馬鹿みたいだ。」


まばゆい楽園で2人は心中
少しの間重なった唇は優しかった。
20110810/√A