幸村精市が、
花屋の店員だったら
「あの、花束を作って欲しいんですけど…」
「こんにちは、今日もいらっしゃったんですね?どのような花束をご希望ですか?」
「転勤する上司に」
最近、花を部屋に飾る事に凝っているあたしが、よく行く花屋がある。町外れにある小さな花屋で、いつも青い髪のすらっとした綺麗な顔の男の人が働いていて、そこだけお洒落なロンドンみたいな雰囲気だった。
いつもは自分のために少しずつ仕事帰りに花を買っていたあたしだったが、今日は特別。あたしの働いている部署の上司が、急に地方に転勤になったのだ。入社したばかりのあたしの面倒をよく見てくれていた上司を、あたしは心から慕い、あるいは、それ以上の感情を抱いていた。
「予算は?」
「3000円くらいで 」
「はい、分かりました。少し待っていて下さいね」
そう言って数ある花の中から少しずつ丁寧に花を選んで揃えていく店員さんは、凄く楽しそうで、少し羨ましいと思った。好きなものと一緒に過ごせる、働ける、なんて。なんて素晴らしいことなのだろうか。近くにある待機用のベンチに座りながら、あたしはぼうっとそんな事を考えた。
あたしは、どうなのだろう。大学を卒業し、適当に受かった会社に就職して。会社に期待なんかしていなかったけれど、一点だけ。そう、彼。上司がそんなあたしに渇を入れてくれた。
上司との仕事は大変だったけれど、確かに楽しかったし、やりがいがあった。と、今になっては思わずにはいられない。
店員さんが花束を作るのを見ていると、自分もあのくらい楽しく仕事をしていただろうかと思う。そうであってほしいとも思う。
しかし、同時に感じるのは未来への絶望。上司がいなくなった後、あのくだらない生活のどこに、甲斐を見出だせばいいのだろうか。
考えれば考えるほど、それは悪循環を続けた
「はい、出来ましたよ」
「あ、ありがとう御座います」
「2800円になります」
店員さんの声は、あたしには酷く心地よい。優しくて、暖かくて。ここを出て外に足を踏み入れた瞬間、現実に引き戻されるような感覚が、あたしは嫌いだ。
それでも代金を支払い、綺麗に作られた花束を抱え、あたしは現実へと踏み出さなければいけなかった。
「またお越しくださいね」
「はい、また来ますね」
名前も知らない店員さんの声を背に、あたしは花束を手に、絶望へと踏み込んだ。
上司の挨拶の前、トイレであたしは真相を知った。
上司は、結婚をするらしい。その相手の女性がどうしても家族と、という願いのために、転勤を決めたというのが今回の上司の転勤の本当の理由だった。
あたしはトイレからなかなか出ることが出来ず、机の横に置いておいた綺麗な花束を、どうしようかと、そればかりを考えた。
「地方へ行っても、手塚先輩らしく、頑張って下さい」
「ああ、みょうじも、油断せずに頑張るんだぞ」
「はい」
「お前は少し、打たれ弱いからな」
最後まで厳しくて、優しい上司。そんなあなたの事を好いていたと、あたしは口には出来なかったし、言うつもりもなかった。
涙は、不思議と出てこなかった
「それと、これ」
あたしは結局、青い包装紙で綺麗に整えられた小さな花束を渡した。好いているから、あたしを忘れないでと渡すわけではない。精一杯の感謝を、伝えたいから渡すのだと頭に言い聞かせた。
「なんだ、お前、こんなものまで」
「感謝の印です。」
申し訳なさそうに、それでも受け取って小さく微笑んでくれる。あたしにはそれだけで十分だった。
その後、少し話をするか、と言われたが、送別会でお話しましょうと言って会社を出た。でもあたしは、送別会に参加するつもりなんて到底なかった。人望の厚かった彼の送別会にはあたしの部署の殆どが参加するらしく、あたしはひとり荷物をまとめ高層ビルを出た。
「さよなら、手塚先輩」
なんて未練がましく言葉を残しながら。
そしてあたしは、家に帰るわけでもなく足を進めた。まだ営業しているかどうかもわからない、あの花屋へと。
なんとなく花が買いたくなった、なんて理由をくっつけて、店員さんの声を聞きたいと我が儘な思いのままに、のんびりと花屋に足を向けた。
「あ、」
8時を回った時計を確認し、花屋にcloseの案内が出ているのを見つけて思わず声を上げてしまった。今日は本当に運が、ない。
そうだ、上司のことだって。もしもあの時トイレで聞いていなかったら。ただ悲しいだけで別れを告げることが出来たのかもしれないのに。なんだか、してもいない告白で、失恋を体験したような気分だった。
そしてここでも。
「仕方ない、か。その辺で飲んで帰ろう…」
と、独り言をぶつぶつ。あたしは花屋に背を向けた。
「あれ、どうしたんですか?」
ふと、後ろから聞こえる筈もない声が聞こえて思わず立ち止まってしまった。聞きたかった声、すがってしまいそうな、そんな声で彼はあたしを呼んだ。
ゆっくり振り返ると、小さな花束を抱えた店員さんがお店から出てくるところだった。手に抱えられた花束はピンク色の可愛いもので、あ、このひとも彼女に会いに行くのかな、なんて途方も無いことを考えた。
そしてまた、失恋したような気分になった。一日に何回失恋するんだ、と自分を笑いたくなった。
「いえ、この近くを通ったものですから」
ここにわざわざ来た、なんて言えない。
「花束、渡せましたか?」
優しい声があたしの頭を麻痺しようとしてくる。あたしは苦笑を浮かべまた彼に背を向けた。
「はい、喜んでいました」
今は彼に向ける笑顔さえ、作れる気がしなかった。今彼の顔を見たら、なんとなく、泣いてしまいそうな気がしたから。なんて惨めなのだろう。あたしは。
「そうですか、それは、良かった。」
「はい。ありがとう御座います。それじゃあ」
背を向けたまま、あたしは足を踏み出した。いつもあたしに夢を見せてくれるこの花屋も、今のあたしには現実しか見せてくれそうにない。これ以上誰とも話す気になれず、鞄の中に入れている音楽プレイヤーをセットし、イヤホンを耳に掛けた。
イヤホンを耳にするとき、何かが聞こえた気がしたが、そのまま足を進めた。丁度かかったバラードが、あたしの悲しみを増幅させた。
「……、ち、…っと、…」
「っ?!」
そのまま飲みに行こうと無理矢理思考回路の回転を変えた瞬間、ぱっと腕を捕まれ驚いて反射的に後ろを見てしまった。
「あ、…」
ぽろっと、片耳のイヤホンが外れるのと同じくらいに、あたしはゆっくり声を漏らした。あたしの腕をつかんだのは、花屋の店員さんだった。
「どうして、悲しそうな顔をしているんです?」
と、彼も悲しそうに言った。
「それ、は…」
「花は、人を悲しませる為にあるんじゃない。人を喜ばせる為に、あるんです」
言って彼は手に持っていた花束を、あたしに差し出した。それは先程見た彼女への贈り物と思われる花束。あたしがもらうわけにはいかない。
「でも、これは、彼女に…」
あたしが花束を押し返すと、彼もまた、ぐいぐいと花束を押し付けてきた。意図がまったく、掴めなかった。
「これは、あなたに、作ったんです」
そんな事を言うから、あたしの冷たくなった心に、少しだけ、暖かい場所が出来てしまった。あたしのために、なんて。それが嘘だとしてもあたしはどうしようもなく、その暖かい場所に留まっていたくなってしまう。
「そ、んな…どうして…?」
あたしが今日ここに再び来ることを、彼は知らない筈。どう聞いても今作ったばかりの口実なのは明白だ。明白、だとしても。あたしは押し付けられた花束を手に取った。
「あなたが、今日、またここに来るような気がしたんですよね。なんとなく、だったんですけど当たって良かった。それに、俺彼女なんて、いませんよ?」
そんな笑顔で微笑むから。肌寒く薄暗い道の真ん中でも彼が暖かいのだと感じられた。
「そう、なんですか…でも、こんな綺麗な花」
申し訳ない、と言う言葉が口から漏れることはなかった。ぐい、とあたしの腕を取る手にちからが入り、彼の元に寄せられたからである。
彼から伝わる体温は暖かくて、この悲しみをぶつけてしまいたくなってしまいそうだった。ああ、本当は、上司が行ってしまうこと、手が届かないところへ行ってしまうことがこんなに悲しいのだと実感した。
「笑って下さい。この花のように。ゆっくりでいいから、いつもお店に来て花を選ぶときのように、笑って下さい」
まるで子供をあやすように、優しくゆったりと彼は言った。
甘えてしまってもいいのだろうか、名前も知らない彼に、彼の優しさに。
「名前を、教えて頂けませんか?」
少しの間、彼の胸にうずくまった後、少しだけ気持ちの整理がついたあたしはゆっくりと彼から離れ、今度こそ、しっかりと彼の目を見た。彼はそんなあたしの言葉を聞き、驚いたように目を見開いたが、またあの優しい笑顔になった
「幸村、精市です」
小さな小さな、後に大きくなる暖かさとの出会いの話
おわり
mae tsugi