緋鯉唄 | ナノ


 春霞

 

その日、非番だというのに八重は足早に長屋から店へと続く道を辿っていた。朝からあぁでもないこうでもないと迷っていれば時間はあっという間に過ぎてゆき、気付けばもう待ち合わせた時間までいくらもない。
気取り過ぎず、地のままでもいけない。紅は結局引くのを止めたし、髪も、何度か流行りの髪形に結おうとしては思い直して、結局いつもの通りに結い上げた。首から上は何もかも店に出る時と変わりない。

「ほんま、何しとるんやろう…」

もう幾度反芻したか分からない言葉を呟く。わざわざ休みを聞き出して、合う日を探して。こんなん、まるで…と思いかけてぶんぶんと首を振った。

男の人と出かけた経験がないせいで、変に気持ちが浮ついている。
舞い上がるには相手が悪いし、目的だってお世辞にも色気があると言えるものではない。しっかりしぃやと自身を叱咤して、慌てていたので少し雑になってしまった髪のほつれを気にしつつ、店へと急いだ。

ようやく着いた店の前には既に鯉登の姿があった。こちらを向いた背に呼びかけようとして、上げかけた手が止まる。鯉登の向こうに、沙代の姿もある。丁度出てきた所に鉢合わせたのか。道理で、妙に肩が強張っていた筈だ。
いつもの通り懸命に喋ろうとしているのか、漏れ聞こえる会話から勢いだけはしっかり伝わってくる。そうして八重の位置から見えるのは、いくらか慣れてきた様子で相槌を打って微笑む沙代だ。

「なんや…」

中途半端だった手が、ぱたりと落ちる。

…取り越し苦労やったかな。

子供っぽいけれど、子供じゃないのだ。放っておいても自分で折り合いをつけたかもしれない。それともまさかの大穴で、沙代のことを射止めてしまうなんて事もあり得るだろうか。そうなれば、全部まんまるく収まるけれど。
こちらに気付いた沙代が控え目に手を振る。八重ちゃん、と甘い声が呼ぶのに、鯉登も振り返った。

「あぁ八重。遅かったな」

躊躇いなく口にするのに、ええんやろかと八重の方がどぎまぎしてしまう。向けられた声は弾んでいて、沙代につられたように甘かった。

「…沙代ちゃんと出かけます?言うたら今からでもいけると思います」

外回りに出る沙代の背が段々と小さくなって行くのを見送りながら、八重は傍らの鯉登へ問いかける。
聞けば、沙代に今日二人で出かけることを話していたのだという。八重ですら気を回して黙っていたのに、当人がぺろりと喋ってしまったらしい。はたして沙代がそれを聞き取れているか、というところだが。

「どうしてだ?」
「どうしてて…分かり切ったこと聞かんとって貰えます?」

かけ引きとかでけへんのやろうなぁ、とちろりとその横顔を窺い、八重はさてどうするかと算段を巡らせる。
休みはまた代わればいいし、前掛けも沙代の物を借りてしまえばいい。店に戻れば確実に何か言われはするだろうけれど、問題と言えるほどの問題でもない。
色々と頭の中へ並べてみてから、よし、と八重は顔を上げた。

「声かけてきますんで、待っとってもらえます、か」

駆け出そうとしたところでぐんと腕が引かれた。驚いて振り返る八重の視線の先では、鯉登が不服そうに口を尖らせていた。

「今日、私が約束していたのはお前だろう?」
「…そう、ですけど」

なら行くぞ、と掴んでいた腕を離した鯉登が先に立って歩き出したが、数歩行っただけで戻ってくる。

「どこへ行くんだ?」
「………」

黙って八重が指をさすのに、首を傾げつつも馬鹿正直にそちらへ向かうその後ろ姿を見つめ、八重は胸につかえていた息を吐いた。
どうにも、調子が狂う。
触れた手が大きくて、掴む力の強さも相まって不覚にも心臓が跳ねた。
前の時も、今だって、おそらく八重の事など欠片も意識していないからこそ、何の気なしに触れてくるのだ。それなのに。

…惚れた子、ほったらかして出かけてええんかな。

誘ったのは八重の方なのだけれども。
何、考えてはんのやろうかと息を吐き、まだ残っているその手の感触を拭い取るように腕を擦り、名を呼ぶ声に顔を上げる。突き当りまで行った鯉登が次はどちらだと声を張るのに、やっぱなんも考えてへんかな、と頭を振り振り、その後を追った。





「すいませんわざわざ付き合うてもろて」

茶店の前の縁台へ並んで腰かけ、皿の上のおはぎを半分に切り分けながら八重は言う。隣では、ひと足先にきていた団子を頬張る鯉登が、口を塞がれている為か一つだけ頷いて返した。

「まぁ、鯉登さんにもええ気晴らしになるんとちゃいますか」

そう続ければ、途端にむすりとする。それを笑うと軽く頭を小突かれた。

「そやけど、助かるんもほんまですよ。数は試したい思てても、一人やとそんなようさん食べられませんし、どうしたって懐も寒うなりますし」
「だから私が持つと言ったではないか。それなのにお前が突き返すから」
「半分は持ってもろたやないですか」

面目が立たないと満額支払おうとする鯉登をどうにかこうにか押し留めての今である。縁台の上には、みたらし、草餅、饅頭等々定番の菓子が一つずつ皿にのって並んでいる。
さらに半分に割ったおはぎを口に放り込み、咀嚼する。ここの餡は小豆の風味がしっかりしている。砂糖の量もそこそこ…と味わっている横からどうにも無視の出来ない視線が刺さるのに、八重はそちらを見やる。

「なんや、言いたい事でも?」

食べている所をじっと見られて気分が良い訳も無い。

「別にお前の店のものでも良かったんじゃないか?」

どうしてわざわざ他所の店に来たのかと、その疑問はもっともだ。

「そらまぁ、食べるだけやったらそうなんですけど。食べ比べよう思たら、他所のやないと」
「作る為か?」
「…それも全く無いわけやないですけど、うちは味を決めるんは大将なんであんまり…。それよりも、味の違いなんかが分かったら、特徴とかウリも説明しやすいんやないかなて」

試してみます?と皿と共に差し出した半分のおはぎを口にして、鯉登がううんと唸る。

「こちらの方が甘いな。だが塩梅はお前のところの方が美味い」

然程悩む素振りも無く言葉が返り、八重は意外な思いで眉根を寄せ真剣に舌の上の菓子へ意識を向けているらしいその横顔を見やった。

「うちはおはぎが一番売れるんです。大将が、甘過ぎるんはしつこい言うてさっぱりした餡作らはるから、お客さんの中にはもっと甘くてもええ言う人も居てはりますけど…何やついてます?」

八重がはたと口を止めれば、いや、と鯉登は真顔で首を振った。

「随分楽しそうに話すんだな」
「そら、好きなもんのことですし」

ふ、と引き結ばれた口の端が持ち上がる。

「私も好きだぞ。お前の店の餡は、少し物足りなさが残るせいか、いくらでも食べられる気がしてくる」
「うちも、そう思います」

照れ臭く笑い、啜るお茶で舌に残る甘みを一度流してから、次の菓子に手を伸ばす。

あ、これ…。

ぱかりと二つに割った小さな饅頭。香る独特な匂いは黒砂糖だ。

「かりんとうの次は饅頭か?」

思わず向けた目に、気付いた鯉登が眉を寄せた。

「いや、かりんとうていうか、鯉登さんもお砂糖みたいやと思たんです」
「砂糖?」

尋ねるのにはいと頷く。しばし考えるような間が開いた。

「…甘ったれと言われているのか?」
「そんな、落ちこんどる人に追い打ちかけるような事、よう言いません」

言っているのと同じだと口を尖らせるのには気付かないフリをして、八重は道を埋める人の往来へと目を向ける。

「けど、味の好みと同じで、そういうんも千差万別やないですか?渋いんがええ言う人もおりますし、甘いんが好きや、言う人もいてはるわけですし」

はたまた両方、なんて人も少なくない。

「………だが、沙代殿は」
「それ言われてしもたら、なんも言えやしませんね」
「お前は…、もう少し歯に衣を着せてもいいのだぞ」
「そんなんしたら、せっかくの菓子の味が分からんようになりそうです」

ぶすくれた顔からは何もかもが筒抜けで、可笑しくてつい笑ってしまう。そんな八重の差し出した半分の饅頭を受け取り、鯉登は鬱々とした溜め息を吐く。

「…私の鼻と背がもっと低ければ…」
「……そういうことやないとは思いますけど」

呆れつつ手に残った片割れを齧る。やはり、これもしっかり甘い。
隣でまだ何かぼやく鯉登が饅頭に喰いつくのを横目に、八重は湯呑へ口をつけた。
ここのお茶は、甘くした餡に合わせてあるのか渋味が強い。そしてこれまた渋い色の器の中、澄んだ緑が揺れるのに、浮かぶ人の姿は決まっている。
月島さんは落ち着いていて深みがあって、それに比べるとやはり鯉登は騒がしいし子供っぽく見える。

「…鯉登さんは、黒糖に似たはりますね」

もったり甘くて。この風味や後をひく甘さが少し苦手だという人も居るけれど。それでもこの砂糖を使った菓子は多いし、人気もある。
残りの一欠けを口に入れながらの八重の台詞で、それこそ子供のようにきょとんと固まり、あぁ砂糖の話かと鯉登が呟いた。

「甘いんもええと思いますよ。うちには、沙代ちゃんもお砂糖みたいに見えとりますから」

甘くて、きれいで。憧れない女子などいない。なにより、時折覗く混じりっ気のない笑顔が、いっそう沙代を美しいものにする。

「やから、そんな沙代ちゃんと似とるんやって思たら、ちょっとええ気がしてきません?」

ちょっと?いや、だいぶやろか、と八重が首を捻っていれば、確かに、と同意が返った。

「言われてみれば、そうだな」

言って口の端を上げるその笑みには、甘さと苦さ、どちらも含まれている。それもけっして良いとは言えない塩梅で。
口の中、もちりとした生地がほどけて重めの餡が溶けていく。

「………しんどなるぐらいやったら、自分も時々は会いに出たらええ話やないんですか?」

どこまで首を突っ込んだものか、ずっとそれを考えていたのだけれど、やはりそんな思いが口を突いた。
きっとこういうのも、甘さの中にほんの少しほろ苦さが混じるくらいで丁度良いのだ。苦みの主張は強いから、多すぎると甘さなんてすぐに負けて消え失せてしまう。
だが、と発した後にぐずぐずと続いた言葉に、次の菓子へ伸ばしかけていた八重の手が止まる。

「沙代殿が、嬉しそうにするだろう…」

思わず口を開け放したまま、八重は足元の砂利へ目を落とすその横顔を凝視した。

「ア…アホやなぁ」

腹の底から湧きあがった言葉そのままが口から滑り出た。顔を顰めるでもなく、溜め息混じりに鯉登は八重を見る。

「………また阿呆呼ばわりか」
「せやかて、元も子もないやないですか。それでしんどい思いしてはるって…」

ううんと八重は頭を抱えたくなる。
そこまで入れ込んでおきながら、押さずに退くのか。
こんなややこしい話があるだろうか。
話はもっと簡単な筈だった。単純に、鯉登が嫌な人間であったなら、遥かに簡単だったのに。

「いっそのこと月島さんと一緒に」

出ていかはったら…と続くはずの言葉がぷつりと切れた。
ふと、鯉登が目を伏せる。薄い自嘲を浮かべる唇。八重から逸れ正面へ向けて上げられたその目が、どこか寂しい。

「…お前は、惚れた男が他の女と話しているのを見て平気でいられるのか?」
「………さぁ。どないですやろ?」

へらりと笑った八重からきな粉を塗した団子の刺さった串を受け取り、ふてているのか団子のせいか、頬を膨らませた鯉登は、それをもくもくと腹に収めてゆく。

「私は…平気ではない。なぜそれが私ではないのかと…」

声が途切れた。片手で顔を覆うのに、また泣き出しはしないかと気をもんだ八重が伸ばしかけた手の先で、一つ肩を震わせた鯉登は顔を上げ、正直…と呟く。

「嫉妬で月島に嫌がらせじみた事もしてしまう」
「…えらい迷惑な話やないですか」

とばっちりも甚だしい。
呆れつつも、手を引っ込めた八重が月島の苦労に思いを馳せていれば、きな粉をつけた口が、またぶつくさと文句を垂れ流し始めた。どうして月島なのだと、分かり切ったことを口にするのに、八重はさらりと答えて返す。

「そら、かっこええからです」
「…かッ…」
「かっこええからです」

重ねて言うと同時に、残った茶を飲みほして立ち上がった。店を出た八重を、鯉登が追って来る。歩調を緩めず歩く八重の背には珍しく方言の雨が降っていた。
沙代のことか、八重への文句か。なーんも分からへんのよなぁこれが、とちょっとばかり口の端を持ち上げて。八重は振り向きもせずに何度耳にしようと判別のつかないそれを薄ぼんやり聞き流す。
いくらも歩かぬうちに川沿いの道へ差しかかり、いつかも沙代と眺めた桜の並木が見えて来る。
気付けば、鯉登の発する言葉の端々にはかろうじて意味を拾えるものが混じるようになっていた。落ち着いてきたのだろうか。思った矢先、聞き取れる言葉がぽつりと落ちるのに思わず足が止まった。

「なぜ私では駄目なのだ…」

いく重にも輪を描く波紋のように耳に届いた響き。利こうとした口が全く動かないことに八重は戸惑う。常ならば淀みなく回る筈の口は、言葉を忘れたように凍りついて開かない。
一瞬、よりも少し長く。何もかもが動きを止めてしまった気がした。我に帰ればなんてことはない。景色は当たり前に動いているし、足が止まったように感じたのだって、ほんの一歩分くらいだ。

そんなん、知らへんわ…。

内心で呟く八重の横を、ぐずぐずと鯉登がまだ何事か呟きながら追い抜いて行く。そこへ再び月島を羨む台詞が混じる。ざわざわする胸の内を、無神経な声は遠慮もなしにかき回していく。

「…なんでやなんて、考えてもしゃあないやないですか」

こらえられずそんな台詞が口をつけば、ふてる鯉登がどうせお前には分からないと口にした。

「―――つい、誰かを妬んだりゆうんは、うちでも分かりますよ」

言えば途端に顔が明るくなるのに、八重は眉をひそめた。

「喜ぶとこちゃいますけど」
「だが、私だけではないと思うと、少し安心する」
「……その相手が沙代ちゃんや言うてもですか?」

安易な台詞への意趣返しのように言えば、浮ついた表情が地に落ちた。それを一瞥し、道を外れた八重は川辺へと下りて行く。流れの側までゆけば、足先に当たった石が弾けてパシャリと水面を叩いた。

どうして自分では、なんて。生きていればそんなことは日常茶飯だ。どちらが劣って、どちらが優れているだとか、運や才、人の気持ちの移り変わり。いくら足掻いたところでどうにもならないものが、世の中には溢れ返っている。それを分かっているつもりでいても、隣で見せつけられればどうしようもなく苦しくなることだってある。それは八重だって同じだ。

また文句を言いだすかと思いきや、後を付いてきた鯉登は黙って言葉の続きを待っていた。向けられるのは嫌になるほど濁りのない目。こんな時こそ喚いて有耶無耶にしてくれたらええのにと思えど、沙代が居なくてはそうもいかない。

「……菓子作るん、上手いんです。…沙代ちゃんの方が」

どんよりと霞む空を映し取った灰色の川面を見つめ、風に遊ばれて落ちてきた後れ毛を撫でつける。溜め息を混じえ、仕方なしに吐露した胸の内は、どろりと重かった。
思い起こされるのは、細く長い沙代の指だ。あの指先が繊細な細工を作り上げてゆくのを目にする度に、八重の胸は何かがつかえてしまったようになる。

「鯉登さんも言うてはった通り、つこてるんは同じもんやのに、食べてみたら全然ちゃうんですよね。いつ来てもうちばっか店におるん、変やと思いませんでした?沙代ちゃんが店に立てへんの、それもあるんです」

何度真似てみたところで、同じようにはならないのだ。材料、手順、それら全部が同じであったとしても、形ばかりか味だって、八重の作る菓子が沙代のものを上回ることはない。
おそらくは、半々でも良かった所を、完全に持ち場を分担することになった一番大きな理由はそれだ。沙代目当ての客が嫌だというのも、嘘ではないと思うけれど。そんなことを面と向かって言うのも酷だから、大将か女将さんか、きっとどちらかが気を回してくれた。

「やから、丸っきり分からんやなんて、そない言われるんは頭にきます」

眦をきつくする八重に、鯉登が少し面食らった顔をした。
まったく妬む気持ちが無いと言えば、そんなのは真っ赤な嘘だ。容姿に恵まれ、才にも恵まれ、そんな人間を前にして、何も思わずに居られるほど鈍くはない。妬みもあるし、羨ましくもあり、申し訳なくもある。

もし八重が同じくらい上手くできていたなら、沙代ばかりが負担を背負うことも無かった。そんなの、沙代こそとばっちりだ。そうは思うのに、後ろ暗い思いも拭いきれずにいる。
少し、沙代の方が最初から上手くできただけで、もしかしたら自分だって、と。けれど依然として沙代の方が優れていることに変わりはなく、同じ事を何度も繰り返して、それでようやく八重は沙代が一歩で飛び越えてしまった地点に届くのだ。それでも、届けばまだ良い。届かないことだってある。
加えて不公平な現状に文句一つ言わないのが沙代だ。腕前も、人としても、敵うものは一つも無いのだと思えば情けないし、悲しくもなる。

「………作るんが上手いことでけへんから、うちが店番しとるんです」

あぁもうやめましょうと手を振る。こんなことを考えていても、陰気臭くなるばかりで、良いことなんて一つも無い。ざらつく胸の内で色んなものが複雑に絡み合って、解けそうも無いから、いつだって八重は丸ごと見て見ぬふりをするのだ。

「言っている事が分からないが」

そんな事を言い出すのに八重が眉を寄せれば、対する鯉登もムッとしたように八重を見つめ返した。

「それがどうして妬みに繋がる」
「分かれへんのやったら結構です。今の話も忘れて下さい」

やっぱり、言うべきではなかった。沙代に入れ込んでいる男にこんな話をした所で、話が屈折するだけだ。

「お前はお前の仕事をしているだろう」
「――――…しとったら嫉妬せぇへんなんてそんなワケ、」
「私は、お前は客あしらいが上手いから店に立っているのだと思っていた」

噛みつくような八重の答えにも構わず、続ける鯉登の声には迷いが無かった。思いもよらぬ事を真正面から告げられて、咄嗟に言葉が出て来ず口篭る。足を止めた八重へ向け言った鯉登はどこか不思議そうでさえあった。課せられたことをする、それの何が悪いのか、と。

「以前文句を言いに来た客を口八丁で丸めこんでいただろう。客への詫びよりも世間話の方が長かった。品物を選ぶフリをしながら、私は随分待ったんだ」

そんな事があっただろうか。何時の話かと目を瞬く間にも、次から次へと言葉は重なる。そうしてやや身を乗り出すその口調には、幾許かの熱も籠っていた。

「お前の口車に乗って、ならそれも一緒にと一品二品多く買っていく客を見たのも一度や二度じゃない」
「口車て、」

なんやえらい言われようやなと自身の行いを振り返ろうとしたものの、どうにも上手くいかなかった。真っ直ぐに向けられた目。強い視線に邪魔されて、考えがちっとも纏まらない。

「菓子が作りたかったのか?」
「ちゃいます…たぶん。そうやなくて…いや、どうなんやろ。もうなんやよう分からんなってきました…」

様々な思いが忙しなく巡るのに頭を抱える。
結局、自分はどうしたかったというのか。勝手に比べて、妬んで、敵わないといじけていただけなんだろうか。

「役割がある。それぞれに得手不得手がある」

気負った風もなく、ごくごく当たり前の顔をして鯉登は言う。

「確かに沙代殿の菓子は美味い。ならきっと両方だ。お前の所の店主はよく人を見ているんだろう」

苦しくなると同時に、じわりと滲んだ思いが胸に広がった。
笑い飛ばしも出来ずに八重は黙り込んでいた。溜めに溜めた言葉全てが抜け落ちてしまったように、言うべきことが何にも浮かんでこないのだ。
あと、と言葉を続けた鯉登が口の端を持ち上げ八重を指した。

「お前は菓子の話をする時、面白い顔をする」
「…おもろい顔いうんは褒め言葉とちゃいますけどね」

やはりどことなく偉そうな鼻につく物言いで、仕草で、笑みで。
けれど、見通しの悪い胸の内をすっと澄んだ風が抜けた気がした。




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