あとかたづけ 2

 

静かなアパートの廊下にコツコツと自分の靴音だけが響く。部屋へ向かいつつ鍵を取り出したところで、扉の前に蹲る影を見つけ、尾形は軽く目を瞠った。

「…久しぶりだな」

口の端を持ち上げ投げかけた声に、やや間を置いて顔が上がる。
予想通り、その顔には涙の跡もなければ憤慨の色も浮かんではいなかった。




「入れよ」

鍵を開け、扉を開けてもまだ動きを見せないその腕を掴んで立ち上がらせた。
声をかけてから一度もこちらを見ていない目は、尾形を避けるように部屋へと向いた。
とりあえず中へ引き入れれば、すんなりとされるがまま玄関に立つ。

「何にも無い部屋」

乾いた笑いに振り返る。その視線は廊下の途中に立つ尾形のさらに奥へ注がれている。

「尾形はスパイか何かなの?こんなに生活感のない部屋初めて見た」
「必要のないものを置いてもな」
「うん、分かる。物にも人にも、執着が薄いイメージ」

納得したように頷いて、意図的に逸らされていた目とようやく視線が重なる。

「私も、いらなくなったんだと思った」





一つ、大きな溜め息をついて、尾形は腕を組み廊下の壁に肩をもたせかけた。
玄関以上に踏み入る気はないのか、上がってくる様子はなくヒールに押し込められたままの足に視線をやる。

「それで?」
「話くらい聞く権利はあると思う」

無表情に、けれどその目は真っ直ぐに尾形を映していた。
ようやく片鱗が見えた。怒ってるな、と薄い笑みが口元に浮かぶ。
こいつの怒り方だ。
白石と同じ、面倒事に首は突っ込まず、巻き込まれようものならさっさと尻尾を巻いて逃げ出すタチのくせに、こうして怒りながら会いに来た。
何が聞きたいんだと訊ねた尾形に、事の発端をと声が返る。

「……人は、誰かの孤独を理解できるようにはできてない」

教科書の一文をそらんじるように、記憶にあるままを声に乗せた。細い眉がぴくりと動く。覚えてるか?と訊ねるも反応が返らない所を見ると、やはり記憶には残っていないらしい。

「お前が言った台詞だ。酔って」


覚えているのは、ふわふわと、主の頭の現状を代弁するかのように定まらない人差し指が描いた歪な円。酩酊状態一歩手前でどうにか踏み止まった女の戯言に耳を貸したのは、単なる暇つぶしだったかもしれない。

白石が飲もうと言いだしたのだったか、懐かしいからとの理由だけで集められた面々の中に苗字もいた。偶然隣合った尾形に、「や、久しぶり」と片手を上げたその顔を、記憶の底をさらって見つけ出すまでにたっぷり一時間はかけた。
大学時代、さして関わりもなかった相手だ。知り合いの知り合いで、互いに顔は知っていたが、ロクに話した覚えもなかった。

そんな女が、酒に酔った末に詩人紛いの空っぽな持論だかご高説だかを垂れ始めたと思ったが、続いた台詞は案外短かった。

“だから私に尾形の孤独は分からないけど、君が寂しそうなのはわかるよ”

思わず眉を顰めた尾形に、苗字は机に敷いた腕に頭を預けながらにへらと笑った。
大体が一人でも平気そうだとか、一匹オオカミだとか。あげくに何もしていないにも関わらずお前は人を寄せ付けないだのと言われたことは数あれど、寂しそうなんていわれたのは後にも先にもあれっきりだ。

“俺は一人の方が気楽なだけだ”

あの日、不快さを隠しもせず言った尾形の台詞がお気に召さなかったらしく、それまでの緩い笑みを引っ込めた苗字は拗ねた子供のように口を尖らせて言った。

“自分から一人になろうとする人間が、孤独じゃないなんて誰が決めたの”




「あんなクソ寒い台詞、初めて聞いた」
「あぁ、あぁ…うん。悪かったね寒くて」
「だが、十分だったな」
「え、うん。…え?」

ゆっくりと玄関まで引き返した尾形を、戸惑いの色をのせた瞳が見上げてくる。

「それで十分だった」

身を退くでもなく、目も逸らさないままにしばらく考えていたようだったが、諦めたのか質問を変えようと言って軽く息を吐いた。

「どうしてこんな事を?」
「こんな事?」
「ケーキにのった苺に何か仕込んだ。私の癖を利用した」

持ち上げた人差し指で、その側頭部を二度叩く。

「……ここが、俺でいっぱいになればいいと思った」

ゆっくりと、目が丸くなる。瞠った目を何度か瞬いてから、あの時飲ませたのは、と苗字は掠れた声で呟いた。

「ただの眠剤だ」

それから?と訊ねる声に何がしかの感情がのることは無い。

「私は苺の事で尾形を問い詰めた辺りまでしか覚えてない」
「脱がした」
「それは知ってる。脱がしてから」
「布団に放り込んだ」
「で?」
「眺めてた」
「………なにを」
「寝顔をだ」

力が入ったまま、ずっと身体の横に張り付いていた手が溜め息と共に持ち上がる。

「なにそれ。最悪。陰湿。変態」

言いつつ顔を覆ったその手が、尾形に表情を窺えなくするが、代わりにしっかりと声が動揺を伝えてくる。

「……じゃあ、何もしてないの」
「何かして欲しかったのか?」
「いや、そんなことはないけど」

俯く額に当てられた手の奥に、赤に染まる頬が覗いた。

「言っとくが、服も俺が全部脱がしたわけじゃない」

じゃあ何だと、隙間から投げられた視線が続きを促す。

「途中から風呂に入るって聞かねぇから好きにさせてたら脱ぐだけ脱いで落ちたんだ」
「んー……やっぱお風呂かぁ…」

自分に向けてらしい大きな溜め息を吐きだし、まだ少し赤みを残した顔を上げた苗字は薄い唇を引き結んだ。

「私さ、片付けって嫌いなんだよね。なんていうかさ、急に独りぼっちなきがしてきて」
「知ってる」
「…あれ、なんで?」
「その酔っぱらってた時に、へらへら喋ってただろ」

へらへらは余計だと言ったきり、黙り込む。
シン、と玄関に落ちた沈黙はより一層冷たく静かに感じられる。
その頬へ手を伸ばし、触れる。俯いていた顔は促すまま抵抗なく持ち上がった。

「知ってて、横に居たの?」

静かな目が、言葉以上に深く尾形の内側に滑り込む。
そうだと言えば、手に入るのだろうか。この目も、全て。

「…ケーキも、後片付けも。お前に引っ掛かりが残るなら何でもよかった」

時間をかけて根付かせた。どの程度の深さまで潜ったか分からないそれを根こそぎ引き抜いた。残った穴の大きさはどれほどのものだったのか。
少なくとも雑草を引き抜いた程度でなかったことは、この表情から知れる。

「…連絡。つかなかった。私がこうして来なかったら、どうしてたの」
「もう二度と会ってなかったかもな」
「そういうとこ、ほんと分からない」

ぐっと熱を持ったようにその目が潤む。欲しかった。この熱が。
この目が、馬鹿みたいに自分のことだけを追えばいいと思った。
半端なものならいらない。いっそ憎悪に近い感情でもいい。

俺だけになればいい。

この目に、他のやつなんて映る隙が無くなるくらい。

「俺を寂しいと言ったのは、お前も同じだったからだ」
「……それは違う」

やっと掴める。そう思って伸ばした手の先、ふれるかふれないかという所で虚像がかき消えたようだった。

「尾形…、……私と、尾形の孤独は違う。私には尾形の孤独は理解できない」

同じ口が、今度は明確な拒絶を吐きだす。

「ッはは」

思わず漏らした笑いに、訝しげな視線が返った。

「ここへ来てそれか」

所詮は酔っ払いの戯言か。まぁそんなもんだろうなと頭はやけに冷静な判断を下す。
掴んだ腕を引く。殆んど放り出すようにした身体が床の上に転がった。
それを見下ろし、尾形は髪を撫でつける。
打ち付けた痛みに歪んだ顔に、自身の熱が疼くのを感じた。




******




「痛った…。いきなり…」

何を、と言いかけた形のまま、そこへ繋がる回路が切れてしまったように唇が動きを止めた。

「どうせヤッたかヤッてないか気にしてたんだろ?」


半身を起こし、後ずさろうとした身体を跨いだ尾形がネクタイを緩める。その様を、凍り付いたまま見上げていた。

「なら本当にすればいい」

睦言でも囁くように互いの額が触れる。
にまりと細められた目に、背が震えた。
上半身を支えていた肘から力が抜け、頭を打ち付ける寸前で後頭部と床との間に手が差しこまれた。無骨な手の感触。覆い被さってきた尾形の身体で、照明の光が遮られる。
囲うようにつかれた腕のせいか、極端に視界が狭まったような錯覚を覚えた。

「一度だろうが二度目だろうが、俺としたって事に変わりねぇんだ」

なぁ。と耳元で囁かれた声にぞくぞくと身体の中を痺れが駆けて、自分がどうしようもなくはしたなくなった気がした。耳朶を噛み切る気かと言う程強く噛まれ、その噛み跡をなぞる舌が湿った音をたてる。

目に溜まっていた涙が縁から零れてこめかみを伝った。嫌悪、恐怖、どちらも違う気がした。
タイトスカートを捲り上げた手が太腿を這う感触に身を捩る。

「ッ尾形、聞い…んッ、ふ」

言うなとでも言うのか、噛みつくように重ねられた唇を割り差し入れられた舌が好き勝手に口内を蹂躙する。

甘くみていた。尾形を。

尾形だから大丈夫。そんな思いが、常に念頭にあったのかもしれない。とんでもない男だと噂に聞いてはいても、話してみれば案外自己開示が下手で捻くれているだけのような気がしていた。今までも、今も、閉鎖空間に二人きりになることを警戒もしていなかった。

離れた唇がつうと糸をひく。

居付いた野良猫なんてとんでもない。今、現に私は食われかけてる。
温度のない瞳に籠った熱。同じように自分も熱に浮かされた目をしてるのだろうか。
いつの間にかショーツもストッキングもはぎ取られ、足の間に滑りこんで来た指が割れ目をなぞった。

「濡れてるな。酷くされる方が良いのか?」

指の動きに呼応する水音。一つ一つ欲を暴かれていくようで、すぐにも逃げ出したくなる。
余程滑稽だったのか、どっちが変態だかと、低く、喉の奥で尾形が笑った。

「…尾形だから」

尾形だからだ。
腹の奥で熱が疼くのも、こんな事をされてロクな抵抗ができないのも。
それどころかもういっそこのまま行き着く所まで行っていいような気がしてしまうのも。

尾形の顔から表情が消え失せる。
今、何を考えているのか。
分かったことなんて一度もない。

話を聞いてともう一度口にすれば、無遠慮に入ってきた指が容赦なく中をかき回した。

「や、ッひ、あ」

深く抜き差しを繰り返す指に翻弄され、甘い痺れが駆ける度身体は正直に反応する。流されそうになる。思考も全部。溶けて混ざって、消えてしまう。
ベルトを外す音がして、疼きを残したまま引き抜かれた指の代わりにあてがわれた熱。思い通りにならないもどかしさからその胸へ拳を打ち付けた。尾形、と何度もその名を呼ぶ。

「…も、好きにしていいから…先に、聞いて」

言っておかないと。じゃないと。きっと尾形は私が何を言っても疑うようになる。快楽に溺れたいだけだと。取り返しがつかなくなる。それどころか、

…もう、会えないかもしれない。

それが一番怖かった。これが終われば、このがらんとした部屋ごと尾形が消えてしまいそうで。
肌蹴たシャツを掴み、引き寄せた。できる精一杯で真っ直ぐ見つめた目が、僅かに瞠られる。

「私にも誰にも、理解はできない。知ることはできるけど、知ったからって理解にはならない。たぶん、私といても、尾形の孤独は埋まらない」
「………」

今までの熱が嘘みたいに、でも嘘じゃない証明のように尾形は熱い息を一つ吐きだす。
その熱が移ったように、この段になってようやく頬が熱くなった。

何から伝えれば良いんだろう。何を伝えれば良いのか、自分の中にある気持ちすら掴みきれない。

ずっと、尾形が手を伸ばしてきたものが何か私は知らない。
ずっと、あんな目をさせてきたものが何なのか。
私が尾形に見た空虚な穴はどれほど深く暗いのか。

「私じゃ埋められない。…けど、側にいたいとは思ってる」

私を見下ろしていた目が、すうと細くなる。

「言いたい事はそれだけか?」
「……後は………気の済むようにすればいい」

言った瞬間、ずぷりと一気に突き込まれた。

「〜〜〜ッ!!」

それだけで軽くイッた気がする。
待ったなしに始まった律動に細い喘ぎを漏らす。
酷い圧迫感。擦り上げられる度、背が引き攣る。
自分のものじゃないみたいな声を遠くに聞きながら、脳に直接ぶつけられているような快楽に揺さぶられ続けた。

「ッは、エロい声だな…」

腰を打ち付けられる度、ねだるように中がうねって尾形のそれを呑み込んでゆく。
骨が床にあたる痛みもある種の快感に置き換わってしまうほど、もう思考はドロドロに溶けてしまって、追い立てられるように何度も上りつめる。
けれどその度、あと一歩というところで尾形が責めを緩める。
先端が抜けるかどうかの浅いところでゆっくり抜き差しを繰り返されると、もっと奥にと思ってしまう。

「や……これ、もどかし……ひぁッ」
「言えよ。どうしてほしい?」

ぐり、と陰核が親指に押し潰される。

「ッ、ゃ、あ」
「言えないのか?」

絶え間なく与えられる刺激に腰が揺れる。
カリカリと引っ掻くようにされれば、もどかしさはさらに募った。

「ッは…ぁ……おがた……っあァッ」

波が引いたとみるや、また奥を突き上げられる。
怖くなる程気持ちがよくて。好き勝手に動くし、遠慮も容赦も無く突かれて苦しいはずなのに、そんな感覚をもたらすのは、単に尾形が上手いのか、それとも何だかんだで尾形が私に甘いのか。
首に噛みつかれ、跳ねたつま先が脱げて転がっていたヒールを蹴飛ばす。
強引に私の意識を引き戻した尾形が、集中しろと言わんばかりに角度を変えた。

「ひ、あ、ぅあ゛、ッあ」

イイところを擦り上げられて目の前がチカチカする。
ひと際高く上がった声と共に背が痛い程に反って、ビクビクと跳ねた尾形のそれが身体の中に欲を吐き出すのを感じた。
くたりと力の抜け切った身体を投げ出せば、間を開けずに再び腰を引き寄せられ、まだ気は済まないらしいと悟る。

場所…変えたいな。口に出すタイミングもなく、くぷ、ともう硬さを取り戻したものの先っぽをのみ込んだ結合部が音をたてる。
せめて避妊…そう考えて、あれ?と疑問が頭を掠めた。尾形ならゴムくらい持っていそうだ。わざとつけなかったのか、それとも。

…この状況は、どこまで尾形の想定内だったんだろう。

気だるく見上げれば、じっと私を見下ろす双眸があった。
今度はじわじわと中を押し広げてくる。
ぞわりと快感が背を撫でてゆくのを感じながら、尾形の首に腕を伸ばした。引き寄せ、その頬へ口づける。
すいと頬が遠のき、唇に取って代わった。また噛みつくようなキスが降る。
絡められる舌。もっと乱暴でもいいのに。そんな考えが掠めたその時、ゆっくり唇が離れた。
穴なんて埋まらなくていい。熱を孕んだ声音が、独り言のような言葉を落とす。

「……同じじゃないとしても、俺はお前が欲しい」

淡々と、けれどそこに扉の向こうからこちらを窺うような慎重さを感じるのが少しおかしかった。

尾形の望む形じゃないかもしれない。私は何処まで行ったって私だし。きっと私の孤独を尾形が理解してくれることもない。

「…じゃあ、私にも尾形をちょうだい」

でもまぁ、いいんだ。尾形だから、それでいい。
少しだけ驚いたように暗い目が表情を変える。

「この、馬鹿…ッ意味分かってんのか」
「ッひぁ、や、ッ」

ごちゅ、と先端が奥に当たる。

「考えなしに、煽りやがって」

激しく突き上げながら吐き出される文句にまで胸の奥が疼いて、もうどうしようもない。

ただ、尾形も珍しく余裕がない顔をしていることに気づいて、この目がずっと側にあればいいのにと小さく笑った。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -