あとかたづけ

 

人は、自分以外の誰かの孤独を理解できるようにはできてないから。








目を開けるといつも通りの天井がそこにあった。見慣れた自分の部屋だ。
体を起こすと、二日酔いのように頭が重く痛んだ。

「うわぁ…気持ち悪…」

お酒、飲んだっけ…。
髪の間に滑り込ませた指でガシガシと頭をかいた。でもそんな覚えは全くない。頭のどこを探しても見つからない。

「…たぶん、飲んでない…はず…」

ならこの原因不明の不調はなんだ。記憶が飛ぶほど飲んだとでもいうのか。
昨日…何してたんだっけ。確か白石が来て、尾形がケーキ買ってきてくれて、それみんなで食べて…あ、違う、白石は先に帰ったんだっけ………それで……
しばらくぼんやりと部屋の壁を眺めて、ふと気づく。

……私…服着てなくない…?

がばりと布団をめくり下を確認して、また布団を元に戻した。
…待って…待て待て待て。なんだこれは。

「……ちょっと…一回落ち着こう」

青ざめたまま全く深呼吸にならない深呼吸をして、もう一度布団を捲った。
何度見ても目に入る光景は変わらなかった。

「……んん…?」

これは、どういうことかな。お風呂と間違えて布団に入ったかな。あ、これちょっとうまくない?
―――――じゃなくて…ッ
ベッドを飛び出し、鞄からスマホを引っ張り出して尾形とのやり取りを開く。最後に見た記憶そのままの履歴が現れ、やっぱり昨日の記憶に間違いはないはずだと確信した。

昨日、尾形と二人でケーキを食べて…。
そうだ。途中で尾形が変なこと言いだして、そしたらなんか苺がぐにゃってして…、してやったりって感じに尾形が笑って……
記憶が徐々に戻ってくると同時に、ぴくりとこめかみが引き攣った。

「ッおがたのやつ…!」

遅れに遅れて湧き上がった怒りに任せて画面に文字を打ち込んでいく。
あいつッ、あいつ私のケーキになんてことを!違う!私になんてこと、を……?
そこで、はた、と手が止まる。
改めて一糸まとわぬ、自分の裸体を見下ろした。

え、これ…なんて打ったらいいんだろ…。

途方に暮れる私を残し、時間切れだとばかりに、画面は打ちかけの苦情を黒く塗りつぶした。





******




考えれば考えるほど、何について考えればいいか分からなくなるという謎のループの中で、とりあえずシャワーを浴び慌てて支度を整え家を出た。
仕事中は一先ず頭から全て締め出す。叩くキーボードがマシンガンのような音を立て、隣の席の同僚が心なしびくつきながらこちらを見ていた。
休憩時間、怖くて取り出してもいなかったスマホを、退社時にようやく確認する。通知は一件。白石からのふざけたメッセージが入っていた。

電車の中で、ぼんやりと尾形とのトーク画面を眺める。どれだけ見たって今朝と何も変わりはないけれど。
…私は、尾形と寝たんだろうか。いやいやいやないないない。
たぶん、それはない。シャワーを浴びた時にも思ったけれど、ただ本当に素っ裸で寝ていただけだと思う。薄目で恐る恐るごみ箱も確認してみたけど、それらしきものは入っていなかった。私が一人で脱ぎ散らかして寝たってほうがまだ信憑性がある。っていうかほんとにありそうで嫌だな…。

サイドボードの上に昨日着ていたはずの服が置かれていたのには、朝、慌ただしくクローゼットから服を引っ張り出している最中に気がついた。その畳み方が明らかに自分のものと違っていて、それをしたのはきっと尾形だし、脱いだ時点で尾形はまだ部屋にいたのだと気づいて、遅刻という二文字に追い立てられる中、頭を抱えて悶絶しそうになった。

状況は恐ろしく不可解。何がどうしてそうなったのか、経験したことも聞いたこともない事例だ。分からなさ過ぎて怖くなってくる。朝起きたら横に尾形が寝ていたとかよりよっぽど怖い。

だけど。そもそもな話、あの尾形が私に手を出すだろうか。…でも何も無かったとして、今度はあの薬の説明がつかないままだ。

…まさか。これ、私も食い散らかされただけなんじゃ…。

頭をよぎったのは例の“つまみ食い”。
食われてはない…と思うけど。

なら、私が何かするか言うかしたんだろうか…。あぁもう…っ。

ぐるぐると巡る思考に酔いそうで、ぐしゃりと前髪を握り潰した。
っていうか、寝てようが寝てなかろうがもう良くないか。お互い子供でもなんでもないんだし。そんな騒ぎ立てることでもない。

自分に言い聞かせるように何度も頭の中で繰り返しながら足早に帰宅し、自宅の玄関で窮屈なヒールから足を抜いた時、テーブルの上に残されたお皿が目に入った。

そうだ。片づけないとと思いながら、朝そのままにして出てきたんだった。

これ見よがしに残されていた二人分のそれを流しに放り込む。敷き紙の上で干物みたくすっかり乾き切っていた生クリームが、少しはみ出してお皿のふちにこびりついていた。
思い切り蛇口を捻って、滝のように落ちる水が白い陶器の上で好き勝手に跳ね回るのをしばらく見つめ、置いてあったスポンジをわし掴んだ。

……片付けは嫌い。めんどくさいとかじゃなくて。人が来た後の片づけは、私にとってどうしようもなく孤独だ。
世界から取り残されて、独りぼっちな気になる。
ぽかりと穴が開くこの感じを、理解してくれる人間はきっといない。
泡立てたスポンジで汚れごと色々なものをこそげ落とすようにお皿を擦った。

「…っていうかさ、服を畳むなら片付けくらいして行ってくれたって良くない?」

聞く人間もいない文句を口にして、ちらりと斜め下へと目を向けた。
そこには、だいたいいつも尾形が座っていた。何がしたいのか。私が後片付けを始めるといつの間にか調理台の前を陣取って、開き戸を背もたれに下らない話をしながら、時々にたりと私を見上げて笑うのが常だった。
別に寝てても寝てなくてもいいけど、と泡を流し、つるりと何事もなかったような顔をする皿に眉をひそめる。

……別に、そんな事はどっちだっていいんだけど

だけど、これで尾形との関係が変わってしまうのは、少し嫌だと思った。





*******




あれからも尾形からの連絡はなくて。
白石は相変わらずご飯をたかりにやってくるし、明日子ちゃんや杉元くんとも普通に食べに行ったりする。休みの日も、仕事も概ねいつも通りで、特に何も変わらないのだけれど。尾形だけが、私の生活からすっぽりと抜け落ちたみたいだった。


今日も、スマホの画面を確認しては苛立ちに似たものが胸の奥で渦を巻く。
自分から絶対に連絡はしないと決めたものの、3週間も経てば流石に腹が立ってきたんだと思う。たぶん。私は怒ってる。
何の説明もないことに。訳の分からない状況だけを残して、一人で勝手に私の世界から出て行ってしまったことに。
いつも誘ってるの私の方ばっかりだったっけ?そんなことなかったよね。連絡、一切ないんですけど。

そうして今日もいつものふやけた顔で「ご飯食べさせて〜」と白石だけは家に転がり込んでくる。当たり前みたいに定位置につく坊主頭にため息をつきつつ煮物を器によそった。すっかり量を多く作る癖がついたそれは、二人で食べてもまだ少し余る。
こっそりと不機嫌な私に気付いてくれるはずもなく、向かいでは悩みなんてなさそうな顔で幸せそうにご飯を頬張る白石がいる。

「ねぇ白石。私最近、尾形を見てない」

何気ない風を装って言うと、白石はひょいひょいと箸で摘んだ煮物を口に放り込みながら「あぁうん、俺も」と頷いた。

「今ちょっと忙しいみたい。時々声はかけてるんだけど」
「へぇ」

お茶を忘れてたことに気付いて立ち上がった私の背を追いかけるように、「なになに?まさかさみしいとかぁ?」と白石の声がかかった。
ぷぷっと笑ったその顔にあまりにも腹が立ったので、熱々の茶を硝子のコップに入れて出してやったら、気付かず触った白石から悲鳴が上がる。慌てて掌に息を吹きかける姿にいくらか留飲が下がった。

入った飲食店のお姉さんが可愛かったとか、そんな白石のたわいも無さ過ぎてくだらなくさえある報告に耳を傾けながら、ここ最近どうにも美味しく感じられないご飯をもそもそと平らげ箸を置く。
手を合わせ、ふと目の前のちゃらんぽらんを絵に描いたような顔へ目を向けた。

「ねぇ。白石はなんでここに来るの?」

前置きも何も無い唐突な質問に、白石は膨れたお腹をさすっていた手を止めると、三白眼の片方をぱちりと瞑って見せた。

「そりゃもちろん、飯が食えるからなッ!」

わざわざ決めポーズまでつけてくれたその答えにまたイラっとしたのは言うまでもない。

「あぁそう。そうだね。もう二度と白石に夕飯は提供しない」
「ちょ、待って嘘っ、嘘だからあッ!」

空の食器を手に立ち上がった私に白石がしがみ付いてくる。

「ちょっと、危ないってば…」

見下ろしたその顔が、いつになく真剣で思わずどきりとした。普段馬鹿みたいに振る舞うくせに、時々白石はこういう顔をする。
どうしたものかと思っていると、「だってさぁ」と白石が不満げに口を尖らせた。

「そんなの、居心地が良いからに決まってるじゃん」
「………そうだね」

ごめん、今のは私が悪かったと手を離させ、流しに向かう。
居心地が良かったのは私もだ。
なんの気を使うことも無くて楽だったし、揃っていろいろ馬鹿をした。尾形の誕生日だってなったら白石と一緒になってプレゼントを買いに走ったし。でも尾形の好みなんて難しすぎて、二人で悩みに悩んだ結果何を根拠にか白石が間違いないと豪語したAVをプレゼントして物凄く嫌な顔をされて。だろうなと思って予め白石を引きずって買いに行っておいたネクタイにも、特に尾形はいい顔はしなかったけれど、何だかんだ今でも時々使ってくれてて、それを発見するたびに何か言わずにはいられないらしい白石が心底鬱陶し気な舌打ちに泣きを見るのも常で。

……それなりどころか、結構楽しかった。

後ろから、自分の分の食器を持って白石がやってくる。

「でも正直ご飯貰えるからってのもだいぶ大き、あいたぁっ!?」

渾身の平手に、坊主頭がいい音をたてた。

そこからまたダラダラどうでもいい話に花を咲かせ、夜も更けて来た頃に、放っておくといつまでも居座る白石を叩き出し、私は流し台に放り込んでいた食器に向きあう。
帰る間際、白石は玄関でさり気なく私の顔を窺っていたけれど、じゃあねと手を振り帰って行った。

三人でいる時の空気感が好きだった。
白石だって、私だって。それはたぶん、尾形も同じだったんじゃないかと思いたい。
水に漬けていた食器を泡まみれにしながら、片づけが終わったら、一度尾形に連絡をしてみようと思った。





******




今日、ご飯食べにくる?
悩みに悩み抜いた末、いい加減面倒になって自棄気味に送り付けた文面は我ながらどうよと思う内容だったけれど、まぁ後は待つだけだと取りあえず一仕事成し遂げた気分にはなった。

それから既に一週間が経った。
返事はない。既読もつかない。送った“今日”は完全にお蔵入りだ。
生きてるのか尾形。死んでたらどうしよう、栄養失調とかで。そんなの笑えないと思ったけれど、白石は連絡が取れてる様子だった事を思い出して眉を顰めた。
そうか。これは、つまり、無視だ。

苛立ちを解消しようと送った筈が、結局さらなる苛立ちを募らせる羽目になった。
これは、いよいよ私が何かした説が濃厚だ。それともまさかまさかのホントに寝たとか。それで幻滅した?興味無くした?顔も見たくなくなったってこと?

つまみ食い。今まで聞いてきたあれこれが、呪いみたいに頭の中でどす黒い渦を巻く。
無視するにしても、せめて説明ぐらいして欲しい。できるなら喧嘩してからとかにして欲しい。私は何も覚えてないんだ。
こんなの、いきなりだだっ広い荒野に放り出されたみたいで。どうしていいか分からない。戻ろうにも進もうにも、どっちに行けば良いかすら定かじゃないのに。


仕事終わり、暗雲を背負い確認した画面には、珍しい友達の名前と共に、夕飯を食べないかとのむねが表示されていた。
何にしても、今誰かといられるのは有難かった。その方が余計な事を考えなくて済む。普段あんまり自分から誘ってくることの無い相手で、しかも急だし何かあったのかと思ったけれど、特に変わった話があるわけでもなく、普通に食事をしただけだった。

別れ際、彼女は遠回りして帰ると良いですと言って、真っ直ぐ駅に向かおうとした私に違う道を指してみせた。

「別に、そんな気分でもないんだけど」

どのお店にしようと迷うこともなく、普段あまり降りる機会のない駅の近くの店を指定したのは彼女だった。私としては慣れない場所なのであまりうろうろして迷ってもな、とも思う。彼女はそんな私の躊躇は承知の上と言う風ににこりと笑った。

「そういう運命です」
「運命って…」

なんのこっちゃ、と思ったけれど。
…まぁ、酔い覚ましにはなるし、良いか。
そう考え言われた道へ足を向けた。彼女の占いはよく当たる。それは友達の間でも評判だった。とはいえ、こんな風に具体的な事を言われたのは初めてだ。というか、そもそもこれは占いだったのか?来てしまったからには、もう何でもいいのだけれど。

ほろ酔いのふわふわした気分で見慣れない風景の中を歩いていると、棚上げしていた思考が舞い戻って来て、我ながら捕らわれ過ぎだと馬鹿馬鹿しいような気にもなってきた。

運命。運命ね…。

その言葉を聞いた時に、頭に浮かんだのは尾形だ。この道の先に尾形がいればいいのに、なんて思うのはもう末期だろう。薄っすら笑ってしまう口元。自嘲的なそれを手で隠し、どこまで行ったら戻ろうかなんて考えながらただ足を動かし続ける。

尾形は、なんで家に来てたのかな。
大学のころなら、無理にでも捕まえて聞き出せたのに。
思えば、私は尾形のことを何も知らない。どこに住んでるとか、どこに勤めてるのかとか、休日の過ごし方も、好きな食べ物だって知らない気がする。

白石はあんなだし、私もこんなだし。しょっちゅう会う割にはあんまり突っ込んだ話もしたことはなくて。
友達なら概ね知ってるだろう事すら知らない私は、尾形にとって友達ですら無かったかもしれない。

別に馬鹿騒ぎが好きなわけじゃなかったはずだ。
ケーキも別に好きじゃないなんて事も言っていたなと、ふと流した視線の先、そこにあったものに思わず足を止めた。
酔っ払いの一団ががやがやと突っ立つ私を追い抜いていく。頭の上では、ネオンに埋もれた街灯がぱちりと音をたてて明滅する。

小さなケーキ屋だった。

始めは何か見たことあるカラーリングだなくらいだったそのお店の看板に、見覚えのあり過ぎるロゴを見つけ、頭に殴られたような衝撃が走る。

―――あぁ、どうしよう。

見つけてしまった。よく見知ったロゴ。何度も何度も見ていたロゴ。いつも尾形が買って来てくれるあのケーキ屋だ。何度訊いても、一度だって教えてくれなかった、あの。

あ、駄目だ。そう思った。何が駄目なのかもよく分からなくて、でも何かが溢れてきそうで、鞄に腕を突っ込みスマホを引っ張り出した。
手が止まらないように、尻込みしそうになる思考全部を頭から閉め出して尾形の番号を呼び出した。
コール音は無かった、微かなノイズの向こう、機械的な声が応える。

“おかけになった電話は…”

聞こえたお決まりの文句の序盤でぷつ、と通話を切った。

「…うっわぁ………」

何も映さなくなったそれを握り締め蹲る。立ってられなかった。急に足場が無くなったみたい。心臓が苦しいくらいにばくばくと騒いでる。
今まで考えないようにしてきたこと。頭のどこかで、もしそうだったらどうしようなんて思って確かめられなかったこと。
切られた。何も分からないままに。

なんで、痛いなんて思うんだろ。

「何が、運命…」

はは…と乾いた笑いが零れる。
あのお店がどこにあるかなんて、そんなこと知らないままで良かったんだ。
尾形が買ってきてくれるから。それでよかった。




******




呼び出し音が鳴って、五つ目を数えた時にもしもーしと間延びした声が聞こえた。

「白石、お願いがある」
『えっ、何?』

用件だけを手短に伝える。何でまた急に、という声は無視し、聞きとった数字を手帳に書きつけていく。

「ありがとう白石。次来た時には」
『あのさ、』

お礼に好きなものでも、と言いかけたのを、いやにトーンの低い声が遮った。

『名前ちゃん、自分が泣きそうな声出してるの分かってるよな?』

何を、と言いたかったのに、思わず詰まらせた息のせいで言葉が出なかった。
面倒事には首を突っ込まない主義のくせに。らしくもなくそんな事を聞いてくる白石は、今どんな顔をしてるのか。もしかしたら見たこともない顔をしているかもしれない。

「……うん。分かってる」

間を開けに開け、ようやくそれだけ告げる。
ふっと笑って気を抜いた気配がした。

『…ならいいや。けど気を付けてな』
「ん。大丈夫」

きりっとした白石を想像しようとしたのに、思った通り全然うまくいかなくてちょっと笑えた。

「…白石。今度来るときは早めに言って。ご馳走作ってあげる」
『え、うそ!?』
「嘘じゃない。なんならリクエストも許可する」

名前ちゃん最高!と電波の向こうでやんやと囃し立てる調子の良い声に、下がりきっていた気分が上向く。白石こそ最高だばかやろう。

「ね、白石」
『いいって。お安い御用だぜ』
「…うん。ありがとね」

通話を切り、ふー…と一つ大きな息をつく。
持ったペンの尻でコツコツと額を打って、ようやく顔を上げた。滅多に使うことのない手帳の後ろにある真っ白なページ。そこに綴った文字を眺め、カチリとペン先をしまった。




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