もひとつうえの



奇妙に生ぬるいその感覚は、まるで自分というものが希釈されてでもいるような空虚さを伴いやって来る。
背骨の半ば辺りから喉の奥へ向けて。徐々に褪せ。擦り切れ。砂の色をした穴に喰い尽くされて行くような。




「おーがたぁ」

鼻にかかり、間延びした声が尾形を呼んだ。
聞こえない風を装い何も答えずにいれば、わざとらしく視界へ入り込むふざけた顔。
いっそ一緒に消えねぇかと、その顔面へ向け煙を吐き出す。それを手で払い、宇佐美はにんまりと笑ったようだった

「見当たらないな〜って思ってたら、こんなとこに居たんだぁ。いくら幸せそうな顔が見たくないって言っても、あんまりなんじゃない?フリでも祝ってあげればいいのに」

わざわざ人気のない屋外の喫煙所を探し出したというのに、なんだって逐一絡みに来るのか。
ある種の狂気を感じる笑みでもって、宇佐美は両手人差し指を尾形へ向ける。

「ふて煙草〜」

語呂が悪い。
相も変わらず趣味は人の神経を逆なでることらしく。不快極まりないその挙動と思考は健在らしい。
大学時代、自分の心酔する教授に尾形が目をかけられ可愛がられていると、なんとも気持ちの悪い言い掛かりを引っ提げやってきてからというもの、姿を見れば絡まずにはいられないようで、毎度靴底に張り付いたガムのようにしつこく纏わりついてくる。

「話す相手もいないとそりゃあ居心地悪いよねぇ?」
「あ?」
「うわぁ怖。一段とガラ悪くなったんじゃない?」
「ご丁寧に心配でもしにきてくれたか?」
「随分面白そうなことになってるなって思っただけ〜」

度々シナを作って見えるその手は、余程の事が無い限り顔の側で待機しており、自在な変形を繰り返してはくどい程の存在感を誇示してくる。
また、ぴんと立てられた人指し指が口元へ。この男、自分の事を女子高生か何かだと思い込んでいるに違いない。

「まさか尾形があの子といるなんてねぇ。一番そこにびっくり。どういう風の吹き回し?」
「悪いが、期待してるようなもんは一つだって出てこないぜ」

へ〜。ふーん。ほ〜ぉ。と感嘆詞を一つ発するごとに主張の強い顔面が近づいてくる。
遠ざけようとするも素直に引き下がるワケもなく、意地でも粗を見つけ出そうと言うのか、ぎょろりと剥かれた目が殊更距離を詰めてきた。

「こっぴどくやり込めてたじゃない。何が回りまわったらそうなるわけ?」
「何の話だ」
「尾形の話」
「誰が誰をやり込めたって?」

はいぃ?とお次は眼球だけでなく歯までが剥き出しになった。
今の今まで余念の無かった女子高生ヅラをかなぐり捨てての顔芸だ。ひょっとして、尾形が知らないだけで最近の女子高生というのはこういった挙動をとるものなのか。

「すっとぼけないでくれる?そういう話しに来たんじゃないんだけど」

そもそもしに来たのは話じゃ無く、同期いびりだろうがと尾形も冷めた目を向ける。

「派手に口論してたでしょ。覚えてるもん、生でキャットファイト見たのも初めてだったし」
「女同士だろそれ」

しかも本来は取っ組み合いの掴み合いで、爪も使えば飛び交う言葉の鋭さも男の喧嘩の比ではない。当然そんな事をしでかした覚えもなかった。

「ね〜原因なにぃ? 尾形が熱くなっちゃうなんてよっぽど気に入らなかったんでしょ〜?」

ごっこ遊びでは飽き足らず、ついに尾形の顔周りでひらつきだした手を払う。いつの間にか長くなっていた煙草の灰が、際どいところを落ちて行った。
記憶にないと告げる尾形へ、思春期の女がよくやる蔑視と嫌悪の入り混じった視線をぶつける男に、そもそもこちらの言葉を聞き入れる意思があるかは甚だ疑問だ。

「嘘だぁ。泣かしちゃったのにさ」

迂闊にも束の間動きを鈍らせた腕は、雄弁過ぎる程雄弁であったらしい。

「うっそ。マジで?本当に?」

目敏くうるさい頭を押し退けた。そもそも宇佐美の言う喧嘩をしていた男が本当に尾形だったのかは怪しい。記憶違いに加え、人違いも十分にあり得る。なにせあの教授以外はどの人間も芋か南瓜に見えているような男だ。
火のついた煙草をくわえたまま、首を妙な角度に曲げた宇佐美の口端が持ち上がる。

「知ってたけど、ほんと最低だよね〜」

似合わないことしちゃってと、好きに言葉を吐き出してはちらちら相手の反応を窺うこいつは真正のサディストだ。負けず劣らず、自らも相当数の女を泣かしていることなどそっくり棚上げされている。

「付き合ったりなんかしたらまた泣かしちゃうんじゃない?ま、何でも良いけど、ってちょっとッ!!?」

叫び、不都合丸無視のサディストがベンチから飛び退いた。煙草を揉み消そうとしていた尾形へ恨みがましい視線を投げかけつつ、詰め寄る。何をしようとしていたかなんざ、考えなくとも分かるだろうに。
立ち去ろうと向けた背には、滑稽な喚き声がしつこく追い縋っていた。






額を肩に押しつけ息を吸えば、知った匂いが鼻腔に流れてくる。
クローク前で待ち伏せていたその腕を掴み、人気のない廊下へ引き込んだのがつい数秒前。わざわざ居残って二次会の知らせを運んで来たらしい名前は、どうせ逃げようとするに違いないと予め腰を押さえていた尾形の腕に縛られ、僅かに身じろぐのみに留まった。
事態に頭が追いつかないのか、前衛美術的な彫像のように上がったまま固まっていた腕は、尾形の背に回りかけては思い直したように胸を突っ張りに戻る。けれどまた思い直しては背中へ伸び、それでもまだ思いきれずにさ迷う。どっちつかずの手は、結局ぎこちない動きであやすように何度か尾形の背をたたいた。見も知らぬものにでもするように、躊躇いがちに、怖々と。
そうして名前はぽつりと呟く、「おかしい」と。

「酔ったかも。そこまで飲んでないのに」
「へぇ」
「もしくは尾形が酔ってる」
「何にだ?」

実際、少なからず回っているらしい酔いは名前を幾分大らかにしている。人目につく場所で、親しい友人の域を越えた触れ方をいつまでも許しているほど、名前は尾形に甘くない。
なら人目がない場所なら何をしても許されるかというと、そうでもなく。尾形から触れた場合は高確率で待ったがかかる。日頃自分からは好き勝手触っておきながらだ。

「何って、お酒」
「場外にまで給仕はグラスを運んじゃくれねえんだ」

額を離し、露わになった肌へ唇を這わせる。そこでようやく名前は尾形を引き剥がした。まだ自分は怒っているのだと、持ち出すのは数時間前に尾形がした意趣返し。悪かったとすんなり口にすれば驚いたように目が見開かれる。

「え、なに、こわい」

再び引き寄せたタイミングで、通路の向こうを人が横切る。気付いたのは名前も同じで、慌てて腕を突っ張り距離の確保に努めるが、そんなものは何の抵抗にもならない。平静を装う傍らで既に紅潮しきった耳を軽く食めば、何度も怖いと繰り返していた口が、ひっと色気の欠片もない声をもらした。

「な…何?」

そのまま耳の輪郭をなぞり、名前の唇に軽く触れる。

「何なになになになに」
「逃げるな」
「逃げない選択肢があるの」
「まだ何もしてねぇだろ」
「し、してる。十分してるッ。尾形の何かするって、何か、って絶対基準がおかし…っていうか今“まだ”って言っ……て…」

揺れた瞳が下へ向く。
さらに強く腰を押しつけたことで漸くこれはまずいと思い至ったらしく、再び尾形を見上げた目には焦りが映っていた。

「…尾形…っここ、どこだと思って」
「ホテルだな」
「そうだけど、その廊下」

それがどうしたと、早くも尻尾を巻こうとする腰を押さえつける。

「何が通るとまずくて、何に見られるのが嫌なんだ?」

言葉を呑んだ名前が尾形を見上げた。耳の熱はじわじわと頬をも浸食している。そんな顔で睨めば当然逆効果。どこまでも、何もかもが自覚に欠ける。
お決まりの理由一つ上げるだけで退くと思われているのは名前のバリエーションが乏しいせいもあるにはあるが、その都度尾形が要求に応じて来たからに他ならない。元来旺盛な方ではない、待てと言われれば待ったし、離せと言われれば手を離した。そうしてやれば、その内罪悪感と自身の欲を持て余した名前が自ずから手を伸ばしてくる。

名前という人間は、尾形から見れば冗談かと思うほどに馬鹿正直で単純、おまけに穴だらけの盾で武装したつもりにもなれる、正気を疑うレベルのお人よしだ。
飾り立てた指先に求められるまま、享楽に身を任せていた頃の尾形が重ねた悪行。ごく普通の学生生活を送っていたはずの名前がそれをどこまで聞きかじっているのかは知る由もないが、従順に引かれた線を守る素振りを見せていれば、警戒という言葉丸ごといとも容易く忘れ去る。例え目の前の男に一度線を踏みつけにされ、その身に爪を立てられていようとも、距離を見直し再度引いた線は守られるものと、根拠もなく思い込んでいる。

「…尾形、やっぱり今日、変だって」

拒んでいた腕の力が緩み、赤い顔を俯けたまま、トーンの落ちた声がそんなことを言い出す。

「…これってさ、………私が訊いてもいいやつ…?」
「………場所、変えるか」
「ちょっと、今はわりと真面目な話し…を」

寄せた唇がパールのイヤリングを掠める。
“ヤりたい”
ひどく熱い耳に流し込んだ囁きに、名前がこれ以上はごめんだとばかりに発生源を両手で塞いだ。再び俯くその首元までが羞恥に染まる。

「……尾形の声って、反則じみてる」
「…へぇ、初耳だな」
「ちょ、え、本気!?」

元より二次会に顔を出そうなんて気はさらさらない。テーブルを回る順序は決まっていないし、花婿が椅子に縛りつけられている訳でもない。逃げ出す前にお声がかかるに決まっている。

ひき剥がした手を引けば、どこへ連れ込まれるかを察した名前が抗おうとするのを、見られて困るのはそっちだろうと黙らせた。
待ったはかけるが、さらに押されれば容易く陥落してしまうほどには、名前は尾形に甘い。けれど、それはきっと尾形に限った話ではない。

かけ引きには向かず、相手の言葉を鵜呑みにしがちだ。真っ当な男に引っかかりさえすれればそれなりに幸せにもなれるんだろうと、拗ねて怒って笑って、見せつけられる剥き出しの感情を、冷めた思いで尾形は見下ろす。
欠陥だらけな砂城の防壁は少し力を込めてやるだけで脆く崩れる。いつか、それに気付く別の男が現れ、尾形からこの手を取り上げて行く。


後ろ手に鍵を閉めた個室の中、ぴたりと閉じた太腿には屹立したそれが埋まっている。見下ろす背が、引き抜く動きで小さく跳ねた。
隅々まで清掃の行き届いたレストルームは、個室にまで暖色の光がこれでもかと降り注ぐ。スピーカーからはホテルの廊下と同じ穏やかなBGMが流れ、男子側だというのにご丁寧にも芳香剤の安っぽいそれとは違う、アロマらしき柑橘系の匂いも漂っている。
健全さを声高に叫ぶ空間の細かなタイルが敷かれた床を、よろめく細いヒールがかつりと打つ。

「や…やだってば、尾形…」
「挿れるなって言っただろ」
「言った、けどっ、人が来たら」
「あぁ、静かにしないとな。裾、自分で持ってろ」

背後に立つ尾形との間で抵抗を試みていたその手に、纏うワンピースをたくし上げさせる。
突き出された尻を掴み、形を教え込むように自身を柔らかな肉の間でゆっくり前後させる。指で秘所を散々に弄ばれた名前は下着までもしとどに濡らし、布越しに割れ目の上の突起を擦り上げるだけでも、乱れた息の合間から殺し切れない声を零す。

卑猥でしかない水音が狭く切り取られた空間を這う。それと相まって首をもたげるのは、暗い衝動だった。
もっと。どこまでも良識人ぶるこの女を乱し、息もできず、理性もなくすほど犯し尽くしたなら…とそこまで考えた所で鈍い音が鳴る。
もった方だったが、とうとう片手で自重を支えきれなくなった名前が壁に頭をぶつけた。舌を打ちながらその身体を反転させる。向かい合わせになった事がこの異常性を再認識させたのか、尾形を見上げる名前は普段使わない色をのせた唇を震わせた。

まだ制止を口にするのに、どうしてと問い返す。今にも足から崩れ落ちそうな名前を壁に押し付け息ごと奪うように食らいつけば、徐々に声は蕩けてゆく。抑えてももれ出る喘ぎは絡んだ舌を伝い、深く、頭の奥の奥を痺れさせる。

「だって、こんな…ッん」
「そうだな。自分で下半身丸出しにして、俺に好き勝手されてるんだ。こんな所で」

苦しげに眉を寄せた名前の喉が小さく鳴った。
倒錯的な状況に興奮しているのは自分だけじゃない。まだ冷静さを捨てきれていない目にも、既に隠しようのない熱が籠っている。

「足、もっとキツくていい」
「も…ほんと、やだ…」

散々先走りを塗りつけられた太腿はもう何の抵抗もなしに押し付けられた尾形のそれを呑みこんでゆく。にゅち、と湿った音がしたのを合図に、耐えきれなくなったように名前が顔を覆った。

「手、どけろ」
「そうやって上から言うの止めてよ」
「…好きなくせに」
「ッん…」

嫌だもやめても全て虚言だ。
止める理由を尋ねれば、返事は大抵“恥ずかしい”の一言で。耳に羞恥の色を差し、目も合わせられずに零すそれがさらに男を焚きつけることなんて、名前はきっと一生気付かない。
良くも悪くも、女としてのしたたかさを持ち合わせていない。それは虫のつく心配が少ないという事でもあるし、だからこそついた虫は厄介だろうということだ。何せそこには尾形自身も含まれている。

剥がした手の奥、俯くその顎を掴み無理矢理に上を向かせた尾形を、煮溶かした飴のような目が見つめる。

「欲しそうだな」

ここに、と腹を撫でた手に名前が薄く開いた唇から息をもらした時だ。扉の向こうで人の声がした。
おそらく二人。談笑しながらやって来た男達が小便器の前で用を足し始める。驚きに身を固くした名前の手がぎゅうと尾形の袖に皺をつくった。

そりゃあ来るだろ、人ぐらい。

今すぐ扉を蹴破ってくる訳でもあるまいし。不安げにするその片足を持ち上げ、入り口を覆っていた布をずらし亀頭を当てがう。ここまですれば次に何をされるか分からない筈がない。

信じられない、と向けられた非難の眼差しに喉の奥で笑う。あぁそうかと。不安の理由はそんな状況で向かい合うのが尾形のような男だということだ。

押し返そうとする力と拮抗する程度の力で腰を進める。不安定な体勢で腕を懸命に突っ張りながら、濡れた両の目がやめてと訴えかけた。
けれどいくら足掻こうと辿りつく結果は変わらず、ただいたずらに時間を引き延ばしているだけだ。
上気した頬は、薄い扉一枚隔てた向こうの顔も知らない男達の為か、それともそんな状況でじれったく与えられる刺激に対してだろうか。

「…っ、…ッふ、ぅ…」

ぐぷ、と音をたて少しづつ割入って行く。先端は既に埋まり、柔い壁のさらに奥へ押し入ろうとしている。
背を痺れさせる快楽。乱れた息を押し殺し、身の内に呑み込まれていく男根を動揺と怯えを混じえた目が追う様は、尾形の下腹部までも重くする。名前を焦らすつもりが、尾形自身もまた、どうしようもなく焦らされている。
とっととぶち込んで、ぐちゃぐちゃにかき回したい。
痛みに近い欲が根元で疼いたその時、控え目なノックの音が個室に響いた。「あの」と声が続くのに内心で舌を打つ。大丈夫ですかと気遣う言葉をかけられるからには、荒い息遣いが外まで届いていたのだろう。

“んなわけねえよなぁ?”

ぎりぎりまで潜めた声と共に耳孔へ差し入れた舌に促されるように、まだ粘りをみせていた腕から力が抜ける。唯一、答えることのできる男が外の声にリアクションを取らないことに焦りを覚えたか、名前が限界とばかりに尾形の胸へ額を擦り付けた。

“はや…く…”

絶え絶えに懇願を吐きだしたその口を塞ぐ。
これが意図的じゃないなんてのは、まったくもって酷い冗談だ。
唇に人差し指をあてる仕草で、とっくに熱に溺れきっていた目が僅かに瞠られる。
ノック音と共に再び声がかかる中、全身で抑え込むようにして一気に最奥を押し上げた。

“〜〜〜ッ!!”

声のない悲鳴が上がる。ガクガクと膝を震わせ崩れ落ちそうな名前へさらに強く腰を押し付け胎の奥を捏ねる。引き攣る内腿。曝け出された白い喉。少しも大丈夫そうではない名前を眺めながら、震える息で扉の向こうへ返事を投げた。
気分が悪くなっただけだとか何とか。適当な理由にもう大丈夫ですからと付け加え、そろそろ立っていられなくなりそうな身体を抱え直す。その頬にひと筋の線を描く涙を、舌を伸ばして舐めとった。



名前が時折もたらす奇妙に生ぬるい感覚。
擦り切れた背から砂状に流れ落ちて行く何か。たまたま気付いて足を止めた物好きが、それに水をぶっかけた。何の気なしに煉られせっせと詰め直されたそれは、厄介な不純物だらけで。始まった腐食は熱を生み、揺らぐことの無かった根幹を蝕みグラつかせる。

とっとと朽ちてしまえばよかった。どうせ立ち腐れることなんて、端から分かっていた事だった。







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