青の滲透
誰かを失くした世界、というのは、存外無色で透明だった。
かかっていたフィルターが取り払われたような感覚で、妙にすっきりとした背の奥がぞわりとする。
あぁ、もういなくなったのかと。
思えど。
思えど。
涙の一つも出はしなかった。
青の滲透
「あぁ。君もエスケープ?」
今にも崩壊しそうに錆びついた非常階段には先客がいて。
「まいるよね」
訳知り顔で言った直後、はは、と小さなあぶくのように笑った。
陽を建物に遮られ陰鬱としたその場所で、一人、煙を生成することに耽っていたらしい彼女は、どーぞご自由にと指で風雨に浸食された鉄板を指す。
それを一瞥し、尾形は踵を返した。
「あれ、戻っちゃうの?おーい、」
廊下を引き返そうとする後ろを、声が追いかけて来る。
細く光の洩れる隙間を滑り込んできたそれは、ドアがドア枠に頭突きをかます音で相殺された。けれどすぐにガチャリとノブが鳴り、薄暗い光が廊下に射す。
「ここだけだよ。人のいない喫煙スペース」
お気楽な顔の下、おいでおいでと手が招く。
「…いますよね」
現在は見事に進行中で。今、正にそこを陣取り存在している当人を指せば、はは、とおざなりな笑い声。どうでも良さそうに。けれどどこか好奇も窺い知れる目が、尾形を映し、細くなる。
「それもそうか」
出会いとも言えず。始まりというにも随分役不足だったと、今でも思う。
昼休み、薄暗い非常階段にはいつも彼女が居た。晴れていようが、土砂降りの雨が吹き込んでいようが大体はいた。時々はいないこともあった。
他部署の。おそらく歳は尾形よりも二つ三つ上だろう。
喫煙スペースとは彼女がかってに作り上げたものらしく、踊り場には頭を切り取られ底に水を溜めた缶が一つ置き去られるのみだ。非常の際には真っ先に抜け落ちそうな足元の鉄板と同じに錆びて年季の入ったそれに、長らくここを駆け込み寺にしていたのだと思ったが、どうにも先人が居た風なことを彼女は時々口にする。
尾形が顔を出せば、ようこそようこそとまるで自分の城へ招き入れるかのごとく両手を広げ、決まって近況報告を求めてくる。知った所で何にもならないだろうに、いちいち尋ねてみては、直ぐに別の話題へすり替える。答えさせるだけさせておいてこの仕打ちとは。
興味がないならどうして尋ねるのか。女のお喋りというやつは、無意味に労力を消費するばかりでどうにも実が無い。
「今日はどしたの?」
「いえ、特に」
「ほんと?だって君がくる時はだいたい何かやらかした時じゃない」
私の情報網をお舐めでないかいと、自身も十分に人を舐めた人間がそう宣う。
たまにべそをかいて、この歳になっても色々あると皮肉や不満を湯水のごとく垂れ流し、ひと箱空ける勢いで灰も煙も量産しながら上司をあげつらっているくせに。
「どこから情報を仕入れられているのか存じませんが」
何にもありませんよと、尾形は肺に取り込んだ煙を吐き出す。
「少なくとも、楽しませられるようなネタは。やり方が合わずに、ぶつかっただけですから」
「また?それで前も手酷い皮肉投げつけて、余計睨まれる羽目になったんでしょ?」
「ご自身の欠落にお気づきになっておられないご様子でしたので」
「負けず嫌いだねぇ」
はは、と別段面白くもなさそうに彼女は笑う。
吊り上げた唇に挟まれた煙草の先で、ほんの束の間、火が煌々と燃える。
「青いなぁ」
煙を吐き、立ち上がった彼女の腕が尾形へと伸びる。
無遠慮に頭を撫でる手。触れたのは思いの外乾いた指先だった。
少しばかり面食らって動かずいる尾形をひとしきり撫でまわし満足したのか、けどさ、と歯を見せて笑う。
「悪くないよ。そういうの」
「…それはどうも」
頭に乗った手をどける。まだ言い足りないのか、したり顔で言葉は続いた。人生の先輩面、もとい大きな世話を焼き、教訓めいた台詞を声にのせる。
「思いはちゃんと口に出しておいた方がいい。まだ声がある内に」
「そうそうは無くならんでしょうな、声なんぞ」
喉笛を潰せば別だが、それにしたって手が動けば意思の疎通くらいは図れるだろう。
乱れた髪を撫でつけ、吸い殻を缶へと投げ込んだ。次を取り出そうとポケットをまさぐる指がつい数分前に握りつぶした箱に触れ、あれが最後の一本だった事を思い出す。
「切れた?」
「…どうも」
差し出されたそれを受け取り火を点ける。吸いこめば、癖のある辛みが舌に乗った。
「ど?」
「―――……正直に申しまして…」
「いい、やっぱいい、言わなくて」
「訊いたのはそちらでしょう」
「私が気に入って吸ってるんだからいいんだよ」
「はぁ」
「君の感想は変に的を射てくるから。あとちょこちょこ敬語がバカ丁寧で厭味ったらしい」
「それはそれは。こんな所に日頃の不満を織り込まれましても」
肩を竦める尾形に、とにかく変なイメージ付いちゃって煙草が不味くなると困る、と割合本気の顔で首を振る。聞いたところで煙草の味なんて変わらんだろうに。
「知り合い?」
「はい?」
「あの子」
灰が指す先を見やれば、アスファルトの上によく知ったセーラー服。
手、振ってる。君に。と意外そうな声が尾形へと向く。
「あぁ、知り合いの家で預かってる子供です。近いんですよ学校が」
「へぇ、そうなんだ」
はは、と生まれては直ぐに消えるあぶくの笑みはいつ見ても灰色だ。
気付かぬ内に侵食を受けていた。申し訳程度の薄っぺらな仕切りを境界に、そこからじわじわと滲み出してくるもの。混ざり。同じ濃度になろうとするかのように。少しずつ灰色がかった世界が広がる。
「優しくしてあげてる?」
「どうですかね。俺じゃなくても、専属のヤツがいるので」
「ふうん?」
「まぁでも、人の真似くらいなら」
「はは、真似って」
「真似られるんですよ。優しさなんてもんは」
「へー…。じゃあ、透明なんだろうね。君の優しさってヤツは」
言ったその視線が上を向く。
いつも、煙を吸い込む時に、彼女は思い出したように空を見上げる。
「いいね。そこにどんな色をどうのせるかも君次第だ」
「…何を仰られているのやら」
「大丈夫。私も分かってない」
吸って吐き出すその様子は、時々不器用な息接ぎのように見える。
後もう少し、何かの要因が加われば簡単に溺れ沈んで行きそうに。心持ち喉を反らして一度目を閉じ、そうしてまた、ゆっくりと目蓋を開く。
「私はねぇ、優しさなら緑がかった青が好きかな」
こう…と説明する指に連れられて、赤く燃える尖端がぐるりぐるりと円を描いた。
「青に、少しだけ緑色を混ぜてね、ついでに気持ち程度の赤。そんなのが一番好きだなァ」
「………」
「尾形クンには難しかったかなぁ」
「そんな説明でイメージ掴めるヤツなんていますかね」
「いるって」
「だと良いですが」
「…それか、真っ黒」
「黒?」
「澄んだ黒ほど、美しい色はないよ」
「それはまた…」
荷が勝ち過ぎてやしませんかと、こちらもおざなりに笑う尾形へ一度視線を寄越してから、彼女は薄い笑みの浮かぶ唇に取り出したばかりの一本を挟んで振り返る。
「ね。火、ちょーだい」
「お持ちだったかと思いましたが」
「まーね。でもこっちの方が早い」
ライターを出すも、見えていなかったかのように素通りした腕が後頭部に回り、尾形の頭を引き寄せる。煙草の先が付くと同時に、何かに気がついた様子でその目はじっと尾形の瞳を覗き込んだ。
「………何か?」
「いや、好きだなぁと思ってね」
「…はぁ」
何が可笑しいのか歯の間から噛み殺した笑いを洩らす。かと思えば、何かに気付いた様子で、いつまで体重を支えていられるかも怪しい手摺から大きく身を乗り出した。
「ねぇ、増えた。増えたよ」
「あぁ、あれですよ。さっき言った専属の」
「あぁあの子がそうなんだ?かわいーじゃん。けど今って平日の真昼間じゃなかったっけ」
「夜勤明けか何かでしょう」
「女の子もさ」
「確かテスト明けだとかなんとか」
「そっちだけ詳しいね」
「たまたまですよ」
「どこか行くのかな」
「どうですかね」
「何か話してる」
「するでしょう。話ぐらい」
何か別の生物にでも見えているのか。珍しいものを観察するかのような横顔に気を取られていれば、また短く息を接いで彼女は言う。
「……ねぇ。君はいつでもつまんなさそうな、いつ死んでも構わなさそうな顔してるけどさ」
手すりの先を見つめる目。それが羨むように、慈しむように引き絞られる。
「君が世界を見捨てない限り、世界も君を見捨てないよ」
「なんですかそれ」
示す指の先では大きく手を振る明日子が尾形の名を叫び、何かと思えば今夜は鍋だとの情報がもたらされた。
「行き先は君ん家らしいよ」
「初耳です」
隣へ目を戻せば、灰青色をした彼女の世界。重たい空を背景に、はは、といつもの調子であぶくを浮かべ笑った彼女は、影も分からなくなるようなこの薄暗がりの中でひとり、酷く眩しげだった。
浮かんでは直ぐに消える。その笑みを見たのはそれが最後だ。
一人、灰色の空へ融けてゆく白煙をぼんやり眺めていれば、ふとその頃の事を思い出す。
何か、聞きたい事があったように思う。けれど漠然として形を成さない。
そんなあやふやさすらも、そのうち泡沫のように消えていくに違いない。
錆びて今にも崩壊しそうな非常階段にはいつだって先客がいた。
今はもういない。
ひと足先に、アンタは世界を見捨てたんだろうか。