フクロウの片目
見知らぬ女がつけてきていた。
半分欠けた月が藍の夜空に高く昇っている。
網走監獄の塀を背に真っ直ぐコタンへ戻る道中、その存在に気付いた。
迂回をしてみても変わらず女が後をつけてくる事を確かめた杉元は、足を速め、森の陰へと滑り込んだ。バレないよう注意して身を隠したつもりだったが、様子を窺おうと木の陰から顔を覗かせた杉元の前に女が立っていた。
ぎょっとして身を引きつつ、その妙な女を観察する。
色の白い、整った顔の女だと思った。
だが実際顔を見ただろうか。
見ていない。
ずっと俯いているからだ。全体を通して小作りなその細面の中で、つんと尖った小さな唇が、ゆっくりと弧を描いた。
思わずごくりと喉が鳴る。
ここまで近づかれ気付かないことなんて考えられない。足音が全く聞こえなかった。
「俺に何か用かい?」
訊ねれば、女は薄い笑みを浮かべて小さく頭を揺らし頷いた。
警戒を露わにした杉元に、女は何を言うでもなく俯いたまま微笑み続ける。
気づいたのは幾日も前だが、何度か町中でもその姿を見かけた気がする。さして気にも止めていなかったが、こんな森の中でというのは流石におかしい。アイヌでもない女がうろついている場所ではない。
なら、つけてきたのか。何のために。
「誰なんだあんた」
何故か、“誰”ではなく“何だ”と聞くべきだったと思った。
人じゃない。人の形をしてはいるが―――いやそんな訳が無い。人だ。そこいらにいるような、人間の女だ。
狐や狸が化けたなんて、今時子供でも信じない。
「ご存知でしょう」と女が笑う。
だが知らない。
何度か見かけていたというだけでそれ以上の情報は何も無かった。
第一、こんな暗がりの中俯いていては顔すらもよくは見えない。知っていたとしても分かるだろうか。
「貰い受けに参りました」
「何をだ?」
たおやかな声が「光を」と答える。
――そんなもの、渡せるものじゃないだろう。
「そうでございましょうか」
ドキリとした。今、自分は思いを口に出しただろうか。
早く戻りたい。そう思った杉元の足を縫い止めるように、女は続ける。
「ここで私が貴方の目を潰せば、光を貰い受けた事にはなりませんか」
「…そっちがその気なら、そうなる前に俺はあんたを殺すぜ?」
はい。と返る。
静かだ。女の、声も、言葉も。小さな沢の水のように、楚々と流れる。
「ご安心ください。手荒くするつもりはございません」
暗く、低い杉元の声音にも怯んだ様子は微塵もない。流れ続ける。細々と。
手を差し入れても、板で堰を立てても止めることは出来ない。
滔々と。言葉がその唇から零れ続ける。
「私が、貴方を害する事もございません」
ただ、
――貰い受けるだけでございます。
澄んだその声にゾッと背筋を悪寒が這った。
「…光を、って言ったよな?」
「光を」
酷く、暗い声を聞いた気がした。
澱んでいないのに、暗い。
おかしくなったのか。自分の頭か、目の前の女か、どちらかがまともじゃない事は確かだ。
「…何で光が欲しいんだい?」
「撃ち抜かれたでしょう。梟の目玉を」
「…へぇ。アンタいつから後をつけて来てたんだ?アイヌの言い伝えになぞらえるなんて随分物知りみたいだが…」
そこまで言って、言葉を切った。
笑っている。女の小さな唇の間から白い歯が覗いていた。
自分が撃ったのは右目だったか、それとも左目か。ふと、そんなどうでもいい事を考えた。
「…アンタの言う光ってのは何なんだ?」
何もしないというのなら、どうやって奪おうというのか。
「光とは、照らすものでございます」
闇を。暗澹たる道を。
「目で感じるものだけが光でございましょうか」
ぬらぬらと暗い。声ばかりが、暗い。
「光とは、照らし、見て、初めて世界を知る扉のようなもの。人によって扉の形は様々でしょうが…」
ふつりと声が途切れる。頬を冷や汗が伝い落ちた。女の口はまだ笑ったままだ。
「…なんにせよ、持って行って貰っちゃ困る。悪いが俺にはまだやるべきことがあるんでね」
「えぇ…よく存じております」
ふっと、灯りを吹き消したように女の姿が闇に溶けた。
いやそうじゃない。月が雲にのまれたのか、暗過ぎて見えていないだけだ。
閉じてみても開けてみても目に映る景色が変わらない。頭から喰われてしまったような闇の中、ぽかりと目の前に月が浮かんだ。
――違う
月じゃない。
「貴方の光とは何でございましょうね」
鏡に鼻先を近づけたように、間近に黄色く光る目玉があった。
一つだけ。片方だけだ。
その瞳孔がきゅうと縦に細く引き絞られる。
「アンタ、いったい…」
気が付いた時、景色は世話になっているコタンのものへと変わっていた。火の消えた囲炉裏の傍で、見慣れた顔が揃っていびきをかいている。
夢でも見ていたのだろうか。
まだ心臓が走っている。どこか腑に落ちない気分のまま寝返りを打つと、澄んだ青の瞳と目があってぎょっとした。
「…どうした杉元?すごい汗だぞ」
眠そうに、目を擦りながら起き上がろうとするのを押し留める。
「……大丈夫だ。何でもないよアシリパさん…」
言って、その目蓋が再び閉じるのを見届け、杉元もゆるゆると目を閉じた。