それでは、また明日 | ナノ
 夜もすがら

 

頭を使うのに掛かり切りで、息をするのさえも忘れたまま佐久楽はただその黒々とした瞳を見上げていた。
恐ろしく時をかけたようにも感じたが、どうにか落とし込めた言葉にようやっと口の端を押し上げる。

「…今度は何をたくらんでるんだ?」

これ以上趣味を悪くするのはごめんだと、にたにた笑うその顔を押しやる。逃げるように背を向けるのは佐久楽の方だ。

「そういった冗談はよせ。心臓に悪い」

押し当てた耳の奥、途切れ途切れに浮かぶ音はどちらのものだろうか。柔らかな点を穿つような、角の取れた丸い音。じっと動かずいれば、そればかりが耳についた。
見つめた先には一片の光も無い闇が広がる。鬱蒼とした森はただの巨大な影の塊となり果て、本当に夜明けが来るのかと思わせる程に暗澹としている。

「―――これは、他愛のない独り言なんだが…」

呟く声は後ろの男の元まで届いているのだろうか。分からぬままに佐久楽は手にしたそれを持ち上げる。

「この鈴は、私と似ている」

影を凝らせ丸めたかのような輪郭は、今にもぐずぐずと形を失くし、後景の闇に混ざり込んでしまいそうだった。傾けてみても、気が向かぬとでもいうのか、指の先で固く沈黙を守ったままだ。
中の玉は気まぐれにしか音を立てない。例え鳴ってみせたとしても、どこか虚ろで乾いた音がするのみだ。

「もう上手く鳴ることもできないくせに、いつまでも形ばかりあり続ける。煤けて用をなさなくなった代物だ。それでも、捨てられずにいる」
「似てるか?」
「似ている」

ふ、と薄く笑ったような息遣いを背後に聞く。いつかも似たような事があったなと、布越しに伝わる低めの体温に、懐かしいのに似た思いがじわりと染み出す。
早いもので。春にもなりきらぬ、まだ山間に雪の融け残る頃に会って、もういくらも待たずに秋が来る。知らぬ地で、日々新しい人や物事に触れているせいなのか、惜しむ間もなく月日は飛び去って行く。
しかし、人の温もりと言うのはどうしてこうも眠気を呼ぶのだろうか。
眠るつもりがなくとも自然と重くなる瞼に、一つ欠伸を洩らした時だ。

「―――アンタは…」

言い澱む、ということを滅多にしない声が、ふと躊躇う素振りを見せた。常にはないそれが、霧散しかけていた佐久楽の注意を引く。

「何かが欠けた人間ってのは、いると思うか?」

投げかけられた問いに、思わず一度目を閉じた。

「……私がそうだ」

中身のない、欠けた器。己のことを表すのに、これ以上の例えはない。

「お前だってそうだろう?」

その言動の端々に、時折似たものが覗くのには気が付いていた。おそらくは、だからこそ気に入らぬ部分も多いのだ。見たくもないものを、そこに見るから。

「まぁ…そもそも、何一つ欠いていない人間など居はしないがな」

欠いた場所や大きさが違うだけだ。目に付き易いかどうかも大きく、その違いは一概に些末だとも言えないだろうが、どこにも傷ひとつない人間などいるものか。

「……一人…知ってるぜ」

ふと、声に寂寥が宿ったように思った。
思わず振り向く佐久楽の視線の先には、常にはない表情を浮かべた尾形がいた。

「…兄が欲しかった等と言ってな、こんな男を兄と呼んで付きまとうような―――…」

見上げる佐久楽を見下ろすその目が、わずかに瞠られる。

自嘲。らしくもない卑下。
満たされぬ憂いのようなそれが空に融けるのを追いかけるように伸ばした手の甲で、目立つ傷を残したその頬へと触れた。

ゆるく吹く風が、夜気に湿る硝煙と土埃の匂いを運ぶ。

時々…、ほんのごく稀に、乾いているばかりかと思っていたそこに湿っぽさを見る。
沼のようだと零したのは誰だったか。底の無い深い沼に似ていると、誰かが佐久楽にそう言った。
けれど佐久楽が思うのは、どうにも水溜りのようなのだ。堆積し、沈む泥の上に張った上澄みを思い出す。少しでもかき回すと瞬く間に濁り何も見えなくなってしまうような。雨上がり、誰も通らぬ忘れられた道の窪みにぽかりと開いた水溜り。周りがすっかり乾いてしまってさえ、はけきらぬ水はいつまでもそこに残っている。

こんなことを思うのもおそらく気の迷いだ。自分も夜気にやられ、相当に湿りを帯びているに違いない。

「さっきの…弟の話か。………違うのか?」

尋ねてみるが、途端に殻を閉じた男はもはやウンともスンとも言いはしない。


「…自分が言い出したんじゃないか」

薄く笑って、佐久楽は元の位置に収まり尾形へ背を向けた。
勝手に喋るくせに、訊けば答えないとは一体どういう了見か。
不気味だ、と佐久楽は風が凪いでいることを確かめた。今に嵐にでもなるのだろうか。或いは深まる夜がこの男を饒舌にさせるのか。心裡の深いところを垣間見たようで、すっきりとしない思いが胸に落ちる。

妙なものだ。
恐る恐る、固く握りしめていた手を開くようにこんな事を語り合って、しかもその相手がこの男だ。
それとも夢でも見ているかな、と佐久楽が頬の下に敷いた腿を抓ってみれば、枕にしていた足が跳ねた。

「……おい」

何してる、と背中から低い声がかかる。

「…少し思う所があったんだ。よ、よせ押すな、また落ちるッ」

その腕が本気で落としにかかるのに、死なばもろともと佐久楽も足に齧りつく。
頑丈さには自信があるが、そう何度も落ちていては流石にこの身も音を上げる。

「言っておくが、ここはお前が思っているよりももっとずっと高いんだ。見ろ、さっき打った場所だって明日には立派な青痣に…明日?いや、もう今日か?」

とにかく経験者は語るんだと息を切らしつつ元の位置に頭を置いた佐久楽が腿を叩けば、形だけ愛想を浮かべているであろう口がまた憎たらしい事を言ってのける。それに掠れた息を吐き、まだ憮然としたまま佐久楽はその名を声に乗せた。

「尾形…。お前の…、その、さっきの話だが…」

その行動の意味を考えたことはあるかと、振り向かぬままに問いかける。

「むやみに距離を詰めようとする者は、その身にどうしようもない孤独を飼っていることがままあるそうだ」
「………孤独ねぇ…」
「…そうだ。…手なずけられねばその身を食い荒らす化け物だ」

一見明るく見える部分は、大きな影の裏返しなことがままある。

「お前の弟とやらがどれほど出来た人物だったかは知らないが。お前から見た面が全てでは無いさ」
「………」
「………」

どんな顔で聞いているかと、盗み見るようにその面を振り返る。

「―――まぁ。ほとんど先生の受け売りだがな」

徹頭徹尾、内情の一切を窺わせないのに変わりはなかったが、聞いた口の端がじわりと持ち上がる。

「ジジイ信者が」
「誰がジジイだ…!」

訂正しろと言えば信者はいいのかよと跳ね返り、佐久楽は小さく吹き出した。
そう問われれば、返す答えは一つ。

「本望だ」

笑わぬ眼が、ほんの僅か緩んだように見えた。
気を取られる佐久楽の頭の下からするりと足が抜け出る。

「戻る」

飛び降りながらついでのように尾形が言うのに、ぶつけた後頭部の恨みも交えそうかそうかと佐久楽も手を振る。
止めないからさっさと戻ってしまえ。
そんな思いが聞こえたかのように、視界から消えたばかりの頭が再びにゅっと生えてきた。

「…なんだ?」

また余計な事でも言い置いて行く気かと、目だけを覗かせた男を見やる。

「―――ひとつ、石みてぇに融通の利かないもんが転がってるな」

寝そべったままの佐久楽の目と鼻の先、同じ高さで視線が合わさる。

「ずいぶんやかましく鳴ってるぜ」

告げる声は素っ気ないものだったが、嫌味はない。

「…本当か?」

今、隠れた下半分はどんな顔をしていただろう。
驚きつつも、むず痒い思いに佐久楽は相好を崩した。
尾形について知っていることが増えて行く。同じように尾形も自分を知っているのだろうかと、そんなことを考えながら向けられた背を呼び止めた。首だけで振り返った尾形は、まだ何かあるのかと目で問うてくる。

「…何かが欠けているというなら、埋めればいい」

欠けた場所が違うからこそ、その繕い方を知る相手がいる。
その昔、己が身を持って実感した事でもある。欠けた器は確かに一度形を取り戻した。埋めてくれたのは他でもない。

「覚えていろ。お前の言う欠けた部分は必ず埋まる。必ずだ」

小馬鹿にした視線が返る。けれどそれすら見方を変えれば可愛げだろうか。

「そう言われると本当になるような気がしてくるだろう?」
「どうだかな」

こそばゆく、佐久楽は笑う。何も言わぬ尾形はまた、唇を薄い笑みの形へ変じた。

「ただ、私もお前も大層派手に欠けていそうだとは思うがな」
「………」

数歩、戻った尾形が何かを広げた。身を包んだ薄布の上に、もう一枚布が被さる。
目を丸くして、佐久楽は身体を覆うそれを手繰った。

「貸しといてやるよ」

見れば尾形の外套だ。

「…何ならもう一度膝を貸してくれるのでもいいぞ」
「贅沢言うな」

軽口を一蹴し、今度こそ足音は遠ざかってゆく。

「…やはり夢でも見てるかな」

己が頬を抓れば当然痛い。
貸りなんてこれ以上はごめんだがと思いつつ、小さく寝返りを打った佐久楽は仰向けになって夜空を見上げた。
気持ち程度に出ていた月を、いつの間にか雲が隠してしまっている。煤けた鈴を目の上へ翳してみれば、空に黒く丸い月が浮かんだ。

どんなに暗い夜にも朝はくるのだ。否が応にも夜は明ける。朝を拒み、窓という窓を全て塞いでしまったとしても、どこかしらに光は差す。
月を袂に仕舞い込み、佐久楽は身体を丸め、かかるそれに包まった。

とりあえず、明日は嵐で間違いないが。




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