それでは、また明日 | ナノ
 閑話 烏の火

「今日は良い日だったんだ」
「…何の話だ」
「良い日だったんだ今日は」

答える気がないのか、そんな判別をつける余裕も失くしたか。尾形の耳が支障をきたしているのでなければ、同じ言葉が反復して聞こえた。
今夜は月が出ていないのか、森はひと際濃い闇に沈んでいる。ゆらぐ松明の明りめがけ、じわじわと距離を詰めてくるような闇の中、声の主はぴたりと尾形の背後に張り付くようにして後をついて来ていた。
その手が握り締めているせいでずれた外套が首を絞めつけるのを引き戻しつつ、尾形は眉を顰めた。

「来たくないなら待ってりゃいいだろ」

歩幅を制限されているようで歩き難い事この上ない。もう幾度目になるか、尾形の踵を佐久楽の靴先が蹴りつけた。
そうしておきながら当人は、嫌だ、と間髪いれずに尾形の提案を突っ撥ねる。

「まさかお前はそれが最善策だとでも思ってるのか。言っておくがそんなものは正気の沙汰じゃない、そうやって一人になってみろ恰好の的以外の何でもないぞ。というかお前普段なら行かないって言うじゃないか何で今日に限って黙ってほいほいついて行くんだ。アシリパに言われたからか、いったいお前はいつからそんなに聞きわけが良くなった。とにかく私は絶対、絶対に…ッ」

鳥でも居たか、梢の間でバサバサと何かが音を立てるのに、いつもの五割増しくらいで回っていた口から情けない悲鳴が上がる。かと思えばごそりと外套の下に何かが潜り込んだ。

「…いや、アホか」

呆れ呟けば、中でくぐもった声が何事かを喚く。
押し出そうとするも、当然すんなりとはいかず、抗う腕が腰に回る。

「やめろやめろやめろもう何も見たくないんだ!」
「おい…いいかげん離……すごい力だッ」

離れさせようとすればするだけ、しがみ付く腕の力は増すばかりだ。

「…何してんだよ」
「…知らねえよ、中のヤツに聞け」

獅子舞みたいになってんじゃねえか、と当たりも強く言って寄越す声音は杉元のものだ。立ち止まった二人に気付き戻って来たらしい。対する尾形のぞんざいな物言いにムッとした顔をするのに、むしろ引き剥がしてくれりゃいいと考えたが、

「何だよ」

佐久楽の収まる外套の裾を持ち上げようとしたその腕を掴めば、杉元は一層の渋面を拵え尾形の手を払い除けた。

「佐久楽は何を怖がっているんだ?」

その隣で、ひょいとアシリパが布地をめくり中を覗き込む。見ればいつの間にか全員が戻って来ていた。

「えー、もしかして苦手だった?」

意外、と覗き込むなり押し返されたのか、坊主頭が仰け反る。

「こういうのって一番怖がる人間に寄ってくるって言うけどな」
「誰も怖いだなんて言っていない。とんだ言いがかりだ」
「ならこの引けちゃってる腰は何なワケぇ?」
「ッひ…!?やめろ気安く触るんじゃない!!」
「いいんだよ、一つぐらい怖いものがあっても」
「そうそう、人間だもの」
「やめろ、腕を掴むな…!嫌だ。嫌だああああああ」

締めつけはもはや内臓を絞り出す気かというほどだ。喚く声は取り繕うことも出来ない程に切羽詰まり、段々と吐き出されるものが人語のていを成さなくなってきた。
眉間に皺を寄せた尾形を余所に、背面の声はやかましく囃したてる。

事の始まりは山中に漂う青白い光を見つけたことだ。人の胸辺りの高さで位置を定めずぼぅと浮かぶそれの正体を、誰が言い出したか肝試しがてら見に行こうとなった辺りから青い顔をしてはいた。動き出してからまだいくらも歩いていないというのに、平静を装い厳重に塗り固めていた面がぼろぼろと崩れ出してからはこの有様だった。
先日のアシリパの二の舞に構い倒されている娘は、喚けば喚くほど恰好の的になっているが、そこへ気を回すだけの余裕もとうに失くした様子だ。

「ほ〜ら怖くない怖くない。大丈夫だから出ておいで〜」

めげずにちょっかいをかけた白石が蹴り出されるのを目の端に、人里に迷い込んだ野生動物のごとく殺気立った気配へ向け、尾形は口を開く。

「出来ないと思ってしまえば出来るものもどうのと言っていなかったか?」

尋ねるも、沈黙し微動だにしない。中を窺い見てみれば、持ち上げた左腕の下に爛々とした片目が覗いた。

「……違う。そもそもこれはできるできないの話じゃない」
「怖いと思うから、」
「そうじゃない!そういう問題じゃないんだ分かるだろう!!」

ならどういう問題だというのか。
瞬時に伸びた腕が尾形の腕を鷲掴み、身体の横へ添うよう下げさせる。そうしてまた外套の下へ閉じ籠る様子に、尾形は唇の端を歪めた。

「ははぁ、さては家永の時もそれだろう。気味が悪いから逃げ回っていたな?」

返事の代わりに固めた拳が尾形の背中を打つ。

「悪いものじゃないぞ佐久楽。パシクルアペだ」

だから怖がらなくて良いというアシリパは、太い木を伐るとその根が腐って光るんだと言葉を接いだ。

「それならいくらでもありそうだけど、見たことないな」
「それに歩いても全然近くならないけど。狐に化かされてるんだったりして」
「昨日の大蛇といい、今日のといい、妙なものだらけだなここは。とりあえずもう少し進んでみて、それでも近づかないようなら戻ろうか」

言いつつ三人がぞろぞろ行くのに尾形も続こうとしたが、増えた後ろ足が待ったをかけた。
代かきの馬鍬が地面に食い込んででもいるように、二本の足は土を削る。これでは進もうにも進めない。

「朝になるまでここに立ってるつもりか?戻るにしたって歩くしかねぇだろ」
「………戻ってくれる気があるのか?」
「………」

腰に回る腕の一本を掴んで引けば、されるまま、ずるりと娘が姿を顕わにした。
見下ろした先の双眸は牙を抜かれた獣さながらに覇気を失くしている。その目で出方を窺うようにしばし尾形を見上げていたが、手を離せばすぐさま中へ引っ込んだ。

「戻りたいなら一人でだ」

再び腰に取りついた両腕の代わりに、頭が背中のど真ん中へ頭突きを見舞う。しかしそれは御免だと判断したらしく、強情だった足がぎこちなく前進を始めた。尾形が進めば、引き摺られるように後をついて来る。
余計な重みはかかるものの、引けた腰の分歩き難さは多少マシになったかに思えたが、

「尾形ッここに居るな?ちゃんと居るな?黙らないで何か喋っていてくれ。尾形、聞こえているか尾形」

どうにもやかましさは増した様子で、その口は片時も勢いを緩めず回り続ける。
辟易しながらも好きにさせているうちに、つと声が止んだ。合わせて足も止めるので、尾形も立ち止まらざるを得なくなる。
こんなことを続けていればそのうち本当に夜が明ける。

「――――尾形…」
「何だ」
「今……私の後ろに誰かいるか?」
「全員前にいるぜ」
「…っ……おがた…」
「何だよ」

胴に取りつく腕が強張り、次いでぎゅうと力が籠った。重ねて名を呼ばわるそこに縋るような響きを認め、手繰り捲った外套の下。闇ばかりかと思えたそこに和金のごとき薄い朱赤が揺れていた。髪を一つに結い上げる組紐。俯く頭の脇に垂れたそれが小刻みに震える。対のように蒼白となった面が上がれば、はくはくと吸えない息を求めるように唇が蠢いた。

「……私の袴を…掴んでいる者がいる…っ」
「…気のせいだろ」
「本当に、本当だ…」

これだけ張り詰めていれば枯れ尾花も幽霊か。何を言ってんだとばかり視線をずらした尾形の後方、1間ほど離れたそこに、ぼぅと浮かび上がる鬼火があった。
炎というよりは、集めた煙を中から光らせでもしたように、それは境界を判然とさせぬまま周囲を薄い青に染めている。
瞬きも忘れた逡巡の後、ちらと下方を確かめるも、当然腐れた切り株などどこにもない。

「――――……」
「尾形、尾形、どうして黙るんだ…!?頼むから何か言ってくれ…!」
「…歩けるな?さっさと行くぞ」

それ以上は振り返らず、水気の多い声で喚くそれを引き摺り尾形は足早にその場を離れた。



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