それでは、また明日 | ナノ
 木の葉が沈む

 

あっという間の出来事だった。
地面の感触を背に感じながら、佐久楽はもう一度目を瞬き、は…と詰めていた息を吐いた。視界一面には空を覆い隠す程に伸びた枝葉。端の方に逆さまになった尾形の顔が覗いている。

―――何だ今のは

軽々と、捩じるようにして地面の上へ転がされた。自分が今どういった体勢で居るのかを考え、ハッとする。しゃがんでいた名残で中途半端に上がったままいた足が、上体から随分遅れて地へとついた。
打ち付けたのか、押し込まれた側の肩と、頭の半分からそっちがぐらぐらと痛い。

「あんまり気安く男に触ってると、いつか痛い目見るぜ」

思わぬ方向から声がかかる。見れば、身を起こそうと肘をついた佐久楽の傍らへ尾形が屈みこんでいた。
もう十分痛い。そう内心で唱えるうちに、黒々としたその目が細くなる。

「ガキのじゃれ合いじゃねえんだ。分かるだろ」
「………へぇ?」

皮肉った笑みをうかべれば、呼応するかのように尾形の口も弧を描いて歪み、伸びた手がゆるりと喉をなぞった。

「…すぐにでも見せて欲しいってんなら別だけどな」

薄い皮膚の上を撫ぜる指の腹がざらついた感触を残していく。
低い声が抑揚も無く紡ぐ言葉を、佐久楽は鼻で笑い飛ばした。見せられるものなら見せてみろ、と。

「お前、人に触れるのも触れられるのも好きじゃないだろう。そんな奴に何かできるとは到底思えない」

以前、背をなぞった時と同じだ。触れる手からは何の熱も感じない。
交わす視線の先にある目がすっと細まる。と同時に息が詰まり、起こしかけていた半身が地面へ押し戻された。

「…つくづく、危機感ってもんが足りねえんだ。アンタは」

見下ろす冷めた眼差し。圧迫を受け狭まる気道。気づけば尾形の片膝は佐久楽の腕を地面に縫い止めている。
こいつ…、と半分呆れる心地で尾形を見上げた佐久楽は、自由になる方の腕で首を掴む手をべしべしと打った。

「忠告なら有難く受け取っておくがな。着地点を違えていないか?死んでいる方が具合が良いだなんて言い出すなよ」
「随分余裕らしい。もっと騒ぐかと思ったけどな。それとも期待でもしてんのか?」
「誰が。そういう嗜好の相談ならそれ相応の店でやれ。聞き入れてもらえるかは知らないが」

かかる手が首の付け根近くの柔い部分を沈ませ、その手の平を押し返すように、一定の間隔で自身の脈が蠢く。
じっと据えた視線の先、尾形もまた何を言うでもなく佐久楽を見ていた。

「…言うじゃねえか」

暗所を思わせる翳りが差す。形ばかりが笑みに変じる目へ、見せつけるように佐久楽は口の端を持ち上げる。

「生憎、ただの脅しにあたふたしてやれるほど初心じゃない」

随分なめられたものだ。
腕を押さえた片膝には申し訳程度にしか重みがかかっていない。空いた手は立てている方の膝から垂れているし、首に伸びた手にも一向に力の籠る気配がなく、そのどれからも、単に追い払いたいだけだということが透けて見えるようだ。
常ならば、ここまで明け透けなことはまずない。

細くなる息の道のせいか、ふうわりと、のぼせるのにも似た熱が頭の奥へ溜まってゆくのを感じながら、佐久楽は浮かべる笑みを深くする。

「―――そもそも、好みじゃないだろう」

上手く震えない喉から押し出した声に、尾形の、型に嵌めたようだった口元が微かに緩んだ。同時に掴む力も弱まり、滞っていた熱がするすると首から下へ逃げて行く。

「アンタにそんな謙遜が出来たとはな」
「知らなかったか?私は謙虚で殊勝だ」

解放された首を擦りつつ今度こそ身を起こした佐久楽の見つめる先で、尾形は離した手をおざなりに振ってみせた。

「…笑える冗談だ」
「ついでに茶を淹れるのも上手い」
「飯を作るのはともかくとして、だろ?」

ひくりと頬を引きつらせ、返す言葉もなく黙り込んだ佐久楽だったが、対する尾形がふと口の端を持ち上げたのに、顰めていた眉を持ち上げた。
日頃目にしているような嘲りとは違う、どちらかと言えば苦笑にも似たそれに目を止め、開きかけた口を一度閉じる。しばし言葉を探してあっちこっちと引っ繰り返し掻き回した末、これ見よがしに長ったらしい溜め息を吐いて、佐久楽は再び背中から地面に倒れ込んだ。

「…なんだ、」

顔を覆った両の手の下、なんだなんだと繰り返す。

「―――ちゃんと笑えるんじゃないか」

身体を巡るのはむず痒いようなくすぐったさだ。血が湧きたつ時の感覚にも似て、なのにあの高揚感からは程遠い。

どけた手の向こうにある尾形の顔から、先程の表情はきれいさっぱり消え失せ、それに取って代わるのは奇異なものを見る目だ。不快、というよりは扱いに困ってでもいるような。

「……ちゃんとしてねぇ笑いなんてもんがあるかよ」
「普段のお前の笑い方だ」

言えば直ぐにも嘲笑を浮かべるのに、「ほらそれだ、それ」と返しつつ、身を起こした佐久楽は着物についた汚れを払う。

「いつもさっきみたいに笑っていればいいんだ」
「やかましい」
「照れなくていい」
「照れてねえよ」
「もっと明るく笑えるなら尚良いが、」

尾形だからなぁと言うのに、その尾形がずいと顔を覗きこんできて、心もち身を引く。

「まるでそうして欲しそうに聞こえるぜ?」
「するなとは言わないさ」

明朗快活に笑う様子など目にした日には、まず妙な茸でも口にしたかと危ぶむだろうが、黴の生えそうな顔をされるよりいいだろう。

「まぁ何にしろ、葉屑と土にまみれさせてくれたことは不問にしてやろう。なにせ私は今気分が良いからな」

殆ど自分でやったようなもんだろ、とすかさず減らず口が水を差すのに、少しはつかえも取れたかとはたく手は止めず問えば、当てつけじみた笑いが返る。それはつまり、いつもの憎たらしさが幅を利かせているという事でもあるが。

「…調子が戻ったようで何より―――あぁ、悪いな」

不意に伸びた手が髪に触れる。何かと思えば、無骨な指には一枚の木の葉がつままれていた。どういう風の吹き回しかと思ったが、立ち上がる当人は特に何を言うでもない。

「戻るのか?白石が山ほど薪を持って戻っていたから、もう少しくらいふらふらしてからでも咎められはしないと思うぞ」

外套から伸びた腕が積まれていた薪を抱え上げるのに、遅れて腰を上げた佐久楽も、あぶれて地に残った薪へ手を伸ばす。こそりとその横顔を窺い見ると同時に、尾形が口を開いた。

「好みかどうかなんて関係ねぇよ。男にとっちゃあな」

絶妙な間だったものだから、盗み見がバレていたのかと思ったが、どうやらそういう訳でもなさそうだ。
また置き去りにというつもりではないだろうに。さっさと行ってしまうその背を追いかける。

「大部分の男はそうだろうさ。だがその大部分にお前が当てはまるのか?随分選り好みしそうに見えるぞ」

どうだ?と横合いから覗き込むのに、「知らねぇよ」と髪を撫でつけた顔が束の間浮かべる感情。

―――少なくとも卵の殻ではなかったな。

ほんの少しではあるが、片鱗を見たのではないか。ははと笑う佐久楽にひねた口が可愛げのない物言いをする。言葉の応酬を重ねるほど可愛げは目減りする一方だが、それにだって今ばかりは寛大になれそうだ。
ああ言えばこう言うのは相変わらず、けれどそこに以前ほどの棘はない。
歩きながら軽口を叩く内、ふと頭を過ぎったものに佐久楽は声を上げた。尾形、と呼ぶのに、また目だけが動いて佐久楽へと向く。

「そういえばお前、名はなんというんだ?」
「……何を言ってるのか分からんな」
「やめろ、憐れんだ目をするな。どうせ分かっているんだろう、姓じゃなく名の話だ」
「知ってどうする」
「そんなことにも理由が要るのか?名くらい尋ねて何が悪い」
「どうせあの坊主頭に感化されただけだろ。いちいち巻き込まれる方はたまったもんじゃねえよ」

う、と佐久楽は言葉を詰まらせる。こうしてちょくちょく図星を突いて来る所が心底憎らしいのだ。

「感化と言えば感化だが、思い出したんだ。そもそも私は尾形という名すらお前の口からは聞いていないじゃないか」

出会ったばかりの頃にも幾度となく似たようなやり取りをしているが、佐久楽がいくら言い募ろうと頑として応じようとしなかったのは尾形だ。

「だから?」
「教えてくれていいんだ」
「必要ないだろ」
「お前になくても私にはある」

尾形が足を止めるのに、一拍遅れて佐久楽も立ち止まる。

「……鯉登少尉が大声でがなっていたな」
「聞こえなかったな」
「白々しいんだ」
「そうだな。ついでに言うなら馬鹿馬鹿しいことこの上ないだろうさ。だがな、」

抱える枝の中から手ごろな一本を掴み、尾形へ向け差し出す。

「どうせならお前の口から聞きたい」

全く意味がないかというと、そういう訳でもないのだ。きちんと向き合おうと思うのなら、違えた手順も踏み直せる。馬鹿らしかろうがなんだろうが、そこにはちゃんと理由がある。
じろりと、またもの言いたげな目が佐久楽を睨めつけるが、駄目押しのようにもう一度差し出した枝を、尾形の手が受けた。薪を抱えたまましゃがみ込み、落ち葉に枝先を埋め文字を綴ろうとするのを見下ろし、佐久楽はふ…と口元へ笑みを浮かべる。

「……読めない」
「………」

言えば尾形が即座に枝を投げ捨てた。

「っそ、そんな所に書く方が悪いんだ!お前だって書きながら思ったろう…!」

どう見たって棒切れで枯れ葉をかき回していただけで、最初の一字も分からない。せめて上の葉ぐらいどかしてだなと佐久楽が靴底で地面を削っていれば、尾形はため息交じりに薄い唇を開く。

「百之助だ。……尾形百之助」

思わず目を瞬いたからか、念仏のような声音が淡々と先と同じ音を紡いだ。
シンと凪いだその目を見つめ返し、追いつかない言葉に、先走った口が声もないままに閉じては開きを数度繰り返す。言葉を見つけ出すよりも早く、佐久楽の指は立ち上がりかけた尾形の外套を掴んでいた。

「―――もっ……もう一度…!もう一度だ尾形!」
「…聞こえたろ」
「あぁ、聞こえていた」

へらりと笑う佐久楽に、尾形が片目を眇める。

「なら必要ねぇな」
「まぁそう言わず。まてまて尾形、置いて行くな」

掴んだ外套に引かれるように尾形の後を追う。
手を離せば、ほんの僅か、名残惜しさに似たものが胸を掠めた。
隣に並ぶ佐久楽をその目がちらと映し、瞬き一つの間にまた前を向く。下の名で呼んでやろうか?とからかう声に沈黙が否を返すが、その横顔に浮かぶ翳りが幾分薄らいだように感じ、つい佐久楽の口も緩む。
字面を尋ねれば、面倒くさいと顔で告げつつもぼそぼそと返事が返る。
百之助、と佐久楽は確かめるように舌の上で音を転がした。

「良い名じゃないか。名に百とつけるのは、色々なものに恵まれるようにとの願いが込められていると聞いたことがある。友、家族、才能。尾形、お前は―――………」

思わず途中で言葉を飲み込んだ。
向けられた暗い目に、ぞくり、と背を痺れが駆けたからだ。

「……お前は、時々そういう顔をするな」

癇に障る事を口にしただろうか。
どうしてと、そう訊いたところで答えは返ってこないに違いない。
喉に無理矢理唾を押し込み、乾く声を取り繕う。尾形、と口にした名は、やはり少し掠れていた。

「……私は…思うよりずっとお前を知らない」

先を行く尾形は振り返らない。だんだんと、佐久楽の足は重く遅くなる。
夕張で見たのだったか。あの乾いた笑みが瞼の奥へ焼き付いている。

「何を考え、何を思うのか。何が好きで、何が嫌いなのか。知らなくたってやってはいけるんだろうがな…」

一つ一つ、口にする度、入れ違えに何かを取り落としていくような気がする。
一体自分は、この男の目の、何がそんなに怖いのか。
塞がってしまいそうな喉から絞り出した声。

「知ってみたいと、そう思う」

言って、終に立ち尽くした佐久楽を、尾形が静かに振り返った。
いつもじっと周囲を観察している冷めた目が、木々の合間から射す赤い光の中で、暗い穴のように見える。
嫌にうるさい沈黙の中、ご立派だと皮肉る口元に薄い笑みがのる。

「心にも無いことをよくもそうつらつら並べられるもんだな」
「無くはないさ」
「………」
「…無くはない」

空っぽな目。合わさる視線に、どういう顔をすればいいのか分からず、佐久楽は苦く笑った。対する顔は少しも表情を変えないまま、視線ばかりが注がれる。
何の主張も窺わせないそれに、ほんの少し、肩を竦めてみせた。

「…なぁ尾形。私たちは、似ているのかもしれないな…」







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