閃々たる
人の心というものは、存外単純だ。
心持を例に挙げるならば尚のこと。天候一つに左右され、他人の言葉一つでも容易に変わる。差異はあれどコロコロと、人によっては握り飯を転がすよりも簡単に移り変わる。
要するに、永倉佐久楽の機嫌は良かった。
高い高い空の上は風も空気の匂いまでもが違っている。
狙撃準備をしている尾形の側で待機している間中、その憎まれ口にじりじり腹を燻されていたことも、その尾形から似ていると聞かされていた鯉登という男を実際に目の当たりにし、なんとも複雑な思いになったことも、全て風に流されどうでも良くなった。
「落ちるなよ、佐久楽」
「…アシリパか」
振り返れば澄んだ双眸が佐久楽を見つめていた。
「こんな眺め、もう二度と見られないと思ってな」
どうせなら何も邪魔なものの無い所で見たかったと、気球についた足場の端に立った佐久楽は、眼下に広がる景色へ目をやる。山の上から見渡すのとも全く違う、空を飛び交う鳥の目線だ。
並び立ち、アシリパも同じように視線を落とすのを横目に、土方さんや先生にも見せたかったと、そんな思いで佐久楽は目を細める。
「絶景かな、ってやつだな!」
いやに明るい声と共にひょいと覗いたのは、締まりに欠けた顔を貼り付けた坊主頭だ。おどけた調子でその垂れた両目の上に手を翳してみせる。
「白石といったな。旭川に来るまでの間に色々と話を聞いたぞ。随分芸達者らしいじゃないか」
なぁ、と佐久楽が水を向けるのに、アシリパが力強く頷く。
「白石はぐにゃぐにゃのタコみたいなやつだ」
「確かに、芯は無さそうだ」
「ちょっと!失礼しちゃう!」
「土方さんは稀代のちゃらんぽらん男だと言っていた」
「そっちも失礼しちゃう!」
ふくれっ面でぷりぷりするのに笑えば、俺の事聞いて回るのは良いけどよ、とその指が佐久楽を指した。
「俺はまだ名前も教えてもらってないぜ、佐久楽ちゃん」
「…知っているじゃないか。それに私がお前の話を聞いたのは偶々だ」
土方と永倉が話していればそれは嫌でも耳に入ってくる。実際は嫌どころかしっかりと聞き耳を立てていたし、土方の隣では口を挟みたくてうずうずしている佐久楽に気付いた永倉が重たい息を吐いてもいたが。楽しく聞いてはいたものの、探りを入れた訳でもなければ、それと知って耳を傾けていた訳でもない。初めは名を聞いてもいまいちピンときていなかったほどだ。話を聞くうち、あの剥製屋で土を掘っていた男かと思い至った。
「知っちゃあいるけどよ、やっぱこういうのは本人の口から聞いてこそだろ」
その風体にまでちゃらんぽらんを滲ませた男が言うのを受け、佐久楽はしばし思案の姿勢をとったが、
「……一理ある!」
「でしょー!」
手を出せば、同じように出された手がぱしりと合わさる。
「永倉佐久楽だ」
「白石由竹」
がっちり握手を交わした後、
「改めて、よろしく佐久楽ちゃん」
と白石はその三白眼の片方を瞑ってみせた。
このままどこまで飛ぶかと思う内に気球は動力を失くし、風に流されるままやがて高山の木々にひっかかり止まった。
見る影もなく萎んで垂れ下がったそれを後にし、一行は追手から逃れるため山を越える。その途中天気が急に崩れ、強く凍えた風が吹き荒れる中をどうにか遣り過ごした。
翌日、荒れた空が嘘のように静まってからは、追手の裏をかこうと十勝方面へ向け山を下った。
下山途中、休憩のために足を止めた岩場で、佐久楽はここへ至るまでに起きた事を思い返していた。
この騒動へ関わってからこちら、想像もし得なかった出来事ばかりを目にしている。
まさか空を飛ぶ日がこようとは夢にも思っていなかったし、鹿の腹に収まり一晩を明かすことも、臭いを嗅ぎつけ集まってきた熊から逃げ出すことも、まるで誰ぞが作り上げた壮大なホラ話のようだ。
続け様に体験したあれこれを話してみせれば、先生はどんな顔をするだろうか。
幾通りかの反応を想像し、だがそのどれもが結局は渋い顔に行き着いてしまったことが可笑しくて、ふやと頬を弛めた佐久楽だったが、何やら木を削っていたらしいアシリパと目があってしまい、慌てて顔を引き締めた。
「それは何をしているんだ?」
咳ばらいをしつつ尋ねた佐久楽に、罠を仕掛けていると返事があった。削りだされた木片同士が、平たい石の下で器用に組んである。これがどういう罠になるのか。
「触るな佐久楽、手を挟まれるぞ」
ぎくりとして、今まさにつつこうとしていた指を引っ込めた時、後ろからも声がした。
「何やってんの?」
見れば同じように気づいてやって来たらしい杉元だ。
「変な鳴き声のエルムがいたから、山杖を削って罠を作った」
それがどういうものかとアシリパが説明するのを聞き、佐久楽は感嘆のため息をつく。
「アイヌの狩りは多彩だな。それに何でも食べてしまう」
聞いた限りでも、アザラシやリスなど味のあたりすらつけられないものが話の中に多く出てきた。その情報の出所である杉元が頷き、またあれこれ珍しい食べ物の話を始めると、そういえば、とアシリパが首を傾げた。
「佐久楽は食事の時に何を気にしているんだ?いつもまず回りの人間が食べるのを確認しているだろう」
「あぁ、それは俺も思った。やけに警戒するんだなって」
思わぬ質問に、佐久楽はぴたりと動きを止めた。
「それに、つまらなさそうだ」と続くのに、少しばかり首を捻る。
「…杉元やアシリパはいつも美味そうに食べているものな」
言われてみれば、自身が物を食う時にどういった表情をしているかなど考えていなかった。至って普通の顔をしていると思っていたし、意識していなければ、どうしたって佐久楽の気は味の方へ向きがちになる。
――つまらなさそう、か。
今まで指摘をされた覚えはないが、そんな風に評されるという事は余程だろうか。
佐久楽がさらに首を捻れば、アシリパが言う。
「お前と尾形はまるで決められた手順を踏んでいるみたいだ」
なんてことだ。
「そんなにか?」
「そんなにだ」
思わず聞き返してしまったが、間髪入れず返答があった。
杉元と目があえば、返るのは無言の首肯だ。衝撃に目を丸くしながら、佐久楽は尾形へ視線を投げた。表情に乏しいその顔は、確かに飯時になっても喜色一つ浮かべたことがない。
あそこまでは酷くないと思っていた。いやあそこまではいかないだろう、流石に。
「別に食べることが嫌いなわけではないんだが、」
「あぁ。もちろんだ。どんな人間でも食べなければ生きてゆけない。食べたものが血となり肉となり、私たちを生かすんだ」
「何より美味い物を食うと力が出るしな」
言って二人が視線を交わす。長く共にいるのかという印象を受けた所以だ。杉元が言うには出会って一年と経っていないそうだが。いい関係を築いているらしい。
そんな様子を眺め、あぁでも、と佐久楽はアシリパへ向き直った。
「アシリパの作るものは美味いぞ。初めて食べた時には驚いたんだ。あまりにも美味いから、つい黙々と食べてしまう」
「本当か?ヒンナか?」
その目が即座に輝くのにつられ、ふ、と笑う。
「あぁ、ヒンナだ」
つまらない、というよりアシリパの作ったものに関しては、きっとあれこれ考えてしまうせいなのだ。
佐久楽等の料理とは根本が違っているのだろうか。何度か近くで煮炊きの様子を見てもいたが、味つけなどもほとんどしていない。それでも、不思議と美味い。
「なら次は一番に脳みそを食わせてやる」
「ん?いや、アシリパ…脳みそは…」
「楽しみだな」
「………」
返事に窮し、佐久楽はぽりぽりと頬をかくが、「山を下りたら」と、真っすぐで、けれど柔らかな声が続けるのに視線を上げる。
「佐久楽がヒンナできるものをたくさん作ろう」
「――――…」
寸の間瞠った目は、一呼吸も待たぬままにじわりとその形を変えた。
目の奥に湿った熱が籠り、言う事を聞かずぐっと寄った眉の下、口元だけが無理な笑みを形作る。てんでちぐはぐになったのは見ずとも分かった。
絞り出すような声で、あぁと頷く。
佐久楽へ向けられたアシリパの表情はきらきらとして、その微笑みが酷く眩しいものに思えた。
前 /
次