それでは、また明日 | ナノ
 雲行き

 

気配を感じる前に声がした。間違っても聞きたいとは思っていなかった声だ。
素振りをしていた手を止め、佐久楽は声のした方を振り向いた。
今この男は何を言ったのだったか。そう、確か精が出るなと聞こえた。

「よくもそう何事もなかったように話しかけてこられるな」

よもや先日何があったか忘れている訳でもないだろうに。
言って注がれる視線からつと顔を背け、首にかけていた手拭で額に浮かんだ汗を拭った。
わざとやっているのかどうか知らないが、この男には人の顔をじっと見る癖がある。それこそ居心地が悪くなるくらいに。

「俺は根に持つ方じゃないんでね」
「そうか、私は根に持つぞ!だから話しかけるな」

佐久楽が素振りを再開すれば、男は傍の切り株に腰を下ろし、「えらく機嫌が悪いな」と評する。

「誰のせいだ」

猿以下だの蠅だのその程度だのと口を開くたびにコケにされ、それでも次の日にはけろっとしていられるほどの寛容さは備わっていない。
束の間、竹刀が風を切る鋭い音だけが場を満たしていたが、ややあって男が口を開いた。

「俺じゃない」
「お前だ」

間髪入れずに遮ると、その口の端が僅かに持ち上がった。
どうもこれが人の反応を見て面白がっている顔のようだという事だけは分かってきた。

「もう黙っていろ、気が散る」

とは言ったものの。黙られたところで集中が出来るのかと言えば、そんなわけも無い。
切り株の上の男はそこに残ったまま一向に立ち去ろうとしなかった。
黙ってはいる。いつものように余計な口を利くわけでもなくそこにいるだけだ。
確かに黙ってはいる。が、その視線がうるさい。

視界の片隅にいる男が、別段用もないだろうに遠巻きにじっと見つめてくる。一体何がしたいのかと思いつつ無視を決め込み素振りを続けていた佐久楽だったが、男が欠伸を一つもらした辺りで、根負けして男を振り向いた。

「…尾形。どうして態々絡みに来た。暇なのか?」

声をかけた佐久楽に、目尻に浮かんだ涙を拭って男は言う。

「ジイさん達が呼んでるぜ」

絶句し、佐久楽は今しがた聞こえたはずの台詞を頭の中で反芻した。

「全員居間に来いとよ」
「――それを早く言え尾形ッ!!!」

軽く息を吐きながら悪びれもせずに続けた男の袖を鷲掴み、佐久楽は家に向かって一目散に駆け出した。




*********




「わざとだろう!?わざとだな!!何とか言ったらどうなんだ!」
「…………何とか」
「ふざけるな尾形ぁッ!!!」

男の背を押し押し、足早に廊下を進む。どうして言わなかったと問えば黙れと言われたからだと返ってくる。少しでも気を抜けば悠々と歩こうとする男に急ごうという気など毛ほどもなかった。

追い立てられる思いでたどり着いた居間には永倉を始め、この家に居付く面々が首を揃えていた。例のごとく遅いとどやされるが、今回ばかりは本当に大遅刻だった。何度も頭を下げ、まったく悪びれた様子もない尾形と揃って廊下側の畳の上に腰を下ろす。

ふと見れば、開け放たれた襖の向こう、敷かれた布団の上にあのカノと名乗った女の姿がある。微笑して軽く会釈をする女に、佐久楽も引きつった笑みを浮かべて頭を下げた。その傍らには牛山の姿があり、かいがいしく世話を焼いていたのか手には粥らしきものが入った器と匙を持っている。
そうして全員が集まったところで始まったのは現状の整理だった。

「こっちにある刺青の暗号は…、この俺…牛山辰馬と、ここにいる家永。土方歳三。油紙に写した複製の暗号が2人分。そして尾形百之助が茨戸で手に入れた1枚……。合計六人分だ」

それを聞きながら土方の身体にもあの刺青が入っているのだと今更ながらに意識した。
茨戸で目にした、両掌ほどの大きさに折り畳まれた人の皮を思い出し、なんとも複雑な気分になった時だ、

「変人とジジイとチンピラ集めて、蝦夷共和国の夢をもう一度か?」

男の言葉に伏せかけていた佐久楽の目がカッと開かれた。

こいつ、またジジイ呼ばわりを…!

政府相手に戦い続ける見通しはあるのかと喋りながら、男は後ろについた腕に体重を乗せ、背後の廊下にいる土方を覗き込んだ。

あぐらまではまだ良かった。だが寛ぎきったこの姿勢はどうだ。
口を開きそうになるのを堪え、ぎゅうと膝の上で拳を握る。

――正座をしろ、正座だ、尾形っ…

心の内で呪いのように繰り返す佐久楽の様子に気付いたのか男が視線を寄越した。しばし横目にじっと見ていたかと思うと、これ見よがしに男の足が火鉢の両側へ投げ出された。

「――――ッ」

ガツッと鈍い音が部屋に響いた。何事かと集まる視線の先で、音の出所である佐久楽が机に打ち付けた額を押さえ「…すみません」と呟く。何でもないので続けて下さいと促した佐久楽に薄い笑いを浮かべ、男は「“のっぺらぼう”はアイヌなんだろ?」と何事も無かったように話を続けた。やはり当てつけだけだったのか、ほどなくあぐらへと戻ったその足にまたしても呻き声を漏らす。

気にするな、すれば負けだ。
パルチザン、のっぺらぼう、ロシアにアイヌ。それに鶴見という男…。
じんじんと痛む額をさすり、佐久楽は男の事を意識の外へ放り出したい一心で金塊を取り巻く現状に耳を傾けていた。
大きな話だ。考えていたよりも遥かに。途方もなさ過ぎて未だそんなに大きなものと関わっているのだという実感は薄い。それを追っている男たちも、逃れられない運命を背負った囚人達も、一体どの程度実感を持てているのかは知らないが。

やがて話が終わり牛山が食器を片付けに立つと、佐久楽も合わせて腰を上げた。

「…尾形、顔を貸せ」

もう我慢は終わりだ。
火鉢の前で背を丸めていたその男は、声をかけた佐久楽を一瞥だけして火鉢へと目を戻す。

「あいにく取り外しはきかん頭だ」
「人をおちょくるのも大概にするんだな」
「何のことだか分からんな」
「嘘をつけ!あれほど分かり易い挑発があるか!!」
「そんな安い挑発にのる様じゃ程度が知れるな?」
「ッ貴様いい加減に、」
「佐久楽」

呼ばれ振り返る。机を挟んだ向こう側では、永倉が難しい顔をしていた。

「座りなさい。話はまだ終わってない」
「尾形、お前もだ」

入れ替わりに立ち上がろうとした尾形を土方の声が制した。
上げかけた腰を畳へ戻した男を、佐久楽が刺々しい視線でもって睨みつけるが、気付いているはずの男はちらりともそちらへ視線をやらない。その様子に土方がにやりと唇の端を持ち上げた。

「先が思いやられるな」
「先…ですか…」

こんな男との先などいっそ無い方がいい。そうは思えど、永倉たちと男が協力関係にある以上滅多なことも言えない。
そんな佐久楽の不満を見越したかのように、永倉が大きなため息をついた。

「刺青人皮がとの情報がある。確かめてこい」
「え…………、この男とですか?」

信じられないとばかり、佐久楽は目を丸くして男を指した。



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