危ない予感はしていた。
芥川にも止められたが、日向は大人しく姫野愛美についていく。
芥川のことも気になるが、姫野本人のことも気になる。
日向の手をこれでもかと強く引っ張る姫野は前を向いていて、どんな表情をしているか分からない。確実に良い雰囲気ではないのだけは分かる。
人目のない場所に辿り着くと、姫野はピタリと止まり、勢い良く日向を投げ飛ばす。
「っ…!」
「ねえ日向ちゃん」
痛みで顔を歪ませる彼女など気にもせず、壁に押し付け、不気味に笑う。
初めて、顔をちゃんと見た。
ぱっちりした目は作り物のようで気味が悪いし、唇のグロスだって付けすぎだと感じるほどの顔。
「あなた立海よねぇ?ジローちゃんと何で知り合いなの?」
「あのっ…私は、偶々氷帝に用があって…それで芥川くんと会ってテニスを見て欲しいと…」
姫野の迫力があまりに圧倒的で日向は俯き、言葉を詰まらせる。
「…ふぅん。立海のテニス部の人達とは知り合いなの?」
「えっ…?あ、はい…仲良くさせて、頂いてます…」
ギリッと姫野は唇を噛み、皆の前で見せていた表情とは一変して、恐ろしい、醜い表情をした。
バシッ
乾いた音が辺りを響かせた。
真っ赤に腫れ上がる、日向の頬。殴られたと気が付くまでどれだけ時間がかかっただろうか。
「何なのあんた。ちょっとジローちゃんに構ってもらえるからって調子に乗ってんじゃないわよ」
「そんなっ…私は…」
「おまけに立海のみんなと知り合い?ふざけてんじゃないわよ!本当、ムカつく!」
日向に一言の言葉も許してくれない。姫野は口々に暴言を吐きまくる。可愛らしい姫野はどこに行ったのだ。
「愛美はね、お姫様なの!愛されるためにここに来たの!お姫様は一人で充分なのよ!」
怒り狂っている姫野が何を言っているのか分からなかった。怒鳴り声は低くて、甲高いあの声はもうどこにもいない。
「…分かったわぁ。あんたも神様に頼んで来たわけね」
「神様…?」
「だからジローちゃんに構ってもらえるんだ。あたしを構ってくれない理由はそれだわ」
ペラペラ一人で姫野は話す。
訳の分からない日向は困惑した様子で、姫野を見ていることしか出来ない。
「あんた、この世界の人間じゃないんでしょう?」
この言葉が何より日向の頭の中に響いた。
この世界の人間じゃない?
何を言っているんだ。
「私は…ここで生まれ育った、人間です…私は、」
怖かった。
否定されているようで怖かったのだ。
姫野の顔が、過去の恐怖と重なり合う。
「嘘よ!補正でもつけてもらってんでしょ?あんた、邪魔なのよ!」
姫野はバシバシと綺麗にデコレーションされた長い爪の付いた手を彼女へと振りかざす。
「消えなさいよ!私の邪魔しないでくれる?愛されるのは私なの!ブスは引っ込んでなさい!」
「っ、!」
体も心も痛かった。
平気で消えろと口にする姫野の頭が日向には理解出来ない。
高く振りかざされた手がもう一度日向を打とうとした時、
「姫野先輩」
ピタリ
その声で姫野の動きは止まる。
「わ、若…」
声がまた変わった。
男が立っていた。
茶色い丸い頭をした、鋭い目付きの男だ。
甘えるように、様子を伺うように姫野は精一杯の上目遣いで男を見つめる。
「何してるんですか」
「愛美ね、この子に呼び出されてぇ…ぐすっ、若が来てくれて良かった、」
嘘をペラペラ並べる。まるで日向が全部悪いみたいに、自分は何もしていない口調で男に啜り寄る。
「そうですか。俺はその人に用があるので失礼します」
男は顔色も変えずに素っ気なく返事をすると、日向の手を掴み、この場を抜け出そうとする。
当然、姫野が許すはずもない。
「若!あのね、愛美も若に用があるんだけど…」
きゅっと男の服を掴むと、首を傾げ、可愛らしい女の子を演じた。先ほどとはまるで別人。
しかし、男は姫野の手を簡単に振り払い、冷静な口調でこう言った。
「俺はこの人に用があると言った。触るな」
まさか言われると思っていなかった自分に向けられた厳しい言葉に姫野は力弱く手を離すしかなかった。
「行きますよ」
日向は男に引っ張られるがまま、フラフラする足に何とか力を入れ、歩いていった。
残された姫野は日向の背中を物凄い表情で睨んでいた。
「あの女、許さない」