私は嘘を吐いてしまいました。あのとき本当は中身を見てしまったのです。大きな文字でハッキリと、『 』と書いてあるのを見ました。何故このような残酷なことをするのでしょう。あんなに優しくて素敵な方の何が気に入らないのでしょう。…いえ、理由は分かってます。私は逃げているのです。貴方と離れたくなどないから。
しかし勘の良い彼らは恐らく気が付いているはず。そして、これを見たのは果たして私だけでしょうか。他の誰かももしかしたら見ているのかもしれません。嗚呼、これは失礼。ちょっとした独り言です。ちょっと仁王くん。変な人でも見るかのような目はやめたまえ!



ある紳士の独白。













日向はペタリペタリと情けない音をたてて長い廊下を歩く。教科書をしっかりカバンに入れ、隠すかのようにギュッと手に力を込めた。彼女はハッキリと
『 』と書いてあるのを見てしまったのだ。


「(怖いな…、私、何かしちゃったのかな)」


虚ろな瞳には誰もいない廊下だけが映る。暗い暗い灰色に気分まで沈んでいく。恐怖で顔が強ばり、笑顔が可愛らしい彼女は今はいない。誰でもいいから傍にいて欲しい。欲張りにもそう思ってしまう。



欲張りなんかじゃないよ。



誰がそう言ったかのように、彼女の目の前にはいっぱいの藍色が広がった。ふんわりと花の香りがする。緩やかなウェーブに日向はホッと力が抜けた。



「日向見〜っけ」
「幸村くん、」


綺麗に口元を弧に描くのはやはり幸村だった。嬉しそうに声をかけると、ぎゅっと彼女を抱き締める。それに安心してなのか、彼女もいつもの笑顔になった。ああ、良かったと安堵の息が漏れる。


「そんなに可愛く笑うほど俺に会いたかったの?ふふ、」
「…うん。幸村くんに会えて良かった、」
「なーんて…、え?」


幸村は言葉をつまらせた。目を大きく開け、心底驚いている。普段なら日向の口からそのようなことは聞かないもので、どう対応したら良いのかなど分からない。


「何…、日向、お前…」
「幸村くん?」
「可愛すぎか…!!!」


興奮気味の幸村に圧倒されつつも、ツルツルした彼の頬を擦り付けられるのは悪い気がしなかった。流石は幸村という男。短時間でこうも簡単に彼女の心を安らかにしてしまう。

こうして、他愛もない話をしながら廊下を歩く。灰色だった廊下も何だか色鮮やかに見えたような気がした。


「今度、部活が休みの時に日向の家遊びに行きたいなぁ」
「わぁ!是非遊びに来て!」
「やったね。じゃあ俺がお前を独り占めだ」
「お花も最近育て始めたから、幸村くんに見てほしいなぁって思ってたの」
「へぇ!それは見たいな」


地味に手を握られていたのだが、するりとそれが離れたかと思うといつの間にか校舎から出ていた。幸村はこれから部活なので、テニスコートに。日向は帰るところなので、このまま下駄箱に。


「じゃあ、俺は部活だからここで。気を付けて帰るんだよ」
「ありがとう。部活頑張ってね」
「勿論。あ、そう言えば日向さ、英語のノート持ってる?日向の一番見やすいし、借りたいんだけど、」
「そ、そうかな。えっと、ちょっと待ってね」


ガサゴソと鞄の中を漁る日向は少し口元が緩んでいた。見やすいと言われたことが嬉しくて、こしょばゆい。英語のノートは確か隅にあったなぁと思い、そこに手をやると、チクリとした痛みが手を駆け巡った。


「っ、」
「日向…?!」


タラリ、ポタポタと流れるのは赤い液体。それに誰よりの焦りを見せたのは彼女本人ではない、幸村だった。赤くだらしなく流れる日向の指先をガシッと掴み、大きな瞳をこれでもかと言うほど開く。



「お前…!血が出てるじゃないか!」
「大丈夫だよ…、これくらいならすぐ治るし、」
「ダメだ。保健室行くよ」



半ば強制的に引っ張られ、彼女は来た道を引き返し、保健室へと連れていかれる。始終黙ったままの幸村が怖かった。「ドジだなぁ。全く」といつもの調子でからかって欲しかった。何故、そんなにも辛そうな顔をしているの?彼女には分からない。



結局のところ保健室には誰もいず、先生不在の標識がたてられている状態だった。幸村が器用に手当てをしており、彼女はじっと固まっていた。
そんな中、幸村を探してか、真田と柳までもが現れる。状況を把握したのか、お咎めはなかった。



「ふむ。ノートを取り出す際に指を切ったというわけか…」
「む?それにしては、深く切りすぎではないか?」
「本当にノートの端の方で切っちゃっただけだから、」
「…」
「…精市、落ち着け」


幸村のただならぬオーラには気が付いていたが、日向は知らないふりをする。大丈夫だよ、ありがとうと何度も何度も言い、その場を宥めようとする。



「本当は、誰かに何かされてるんじゃないのかい?」
「幸村、!」
「何で正直に話さないの?そんなに俺は信用ならない?」
「精市、その辺にして、」
「いつもいつも大切なことは話さない。俺の気持ちは?一方的なものだったの?お前のことを大事に思っていたのは俺だけなの?」
「幸村、く」
「俺は」


その時の幸村の瞳はとても冷たかった。こんな彼は見たことがない。怖い。この先何を言われるのか分からなくて、怖い。耳を塞ぎたい気持ちになるが、はっきりと届いてしまった。




「日向のそういうところが嫌いだ」




まるで、銃弾で心臓を撃ち抜かれたような感覚に陥った。ズキンズキンと痛い。呼吸なんて苦しくて出来ない。


待って、話を聞いて。


それだけの言葉が言えなくて、喉元にギュッと詰まった。

幸村は静かに保健室から出ていってしまう。パタンと閉じられた扉をただ見つめる。色のない彼女の瞳を真田と柳は心地悪く見ていた。



「日向…、精市はカッとなっただけだ。本心ではない」
「俺たちから少し言っておく。気にするな」
「だが、本当のことを言ってはどうだ?俺たちは薄々勘づいてはいる。弦一郎も俺もテニス部も」
「あぁ、何となくだが分かっている。きっと幸村も話してほしいだけだ。だから、」
「…いいの」


言葉を遮った時の日向の顔は酷く歪んでおり、今にも泣いてしまいそうだった。だからなのか、2人は何も返せなかった。彼女は彼女なりに何かをしようとしているように思えたから。強くなろうとしているように見えたから。



「まだ、話せない…」
「日向、」
「でも、絶対に話す。だから、お願い…」



顔を見合わせた2人は渋い表情で、頷く。黙っている彼女には悪い予感がするが、話すと言った以上、日向は絶対に話す。約束は破らない人間だからだ。彼女なりの考えがあってのことだ。自分たちは分からない程度に彼女を助けよう。そう心に誓ったのだ。







(だけど、彼女を傷付けた人間を見たらその時は、)

(許すことは出来そうにない)





廊下には唇を噛み締める幸村の姿がポツリ寂しそうに佇んでいた。はてさて、彼は何に対して唇を噛んでいるのか。それはまだ分からない。今はまだ、分からないことだらけだ。


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