どこか人を苛立たせる笑いをその口元に貼り付けて、彼は己の神を語る。 そもそも神とは何なのだ――そう問えば、「嫌ですよぅ。僕ァ馬鹿だから、そんなことは説明できません」と下らない言葉が返ってきた。答えにすらなっていない。別に気にはしないが、とにかく苛ついた。 語れもしないくせに、君はそうやって彼を神格化して焦がれているのか。 そう思ったが、無駄な会話をするのが酷く億劫で、口にするのは止めておいた。
それらは、僕らには必要の無いプロセスだったから。
「それじゃあ、榎木津さん、先輩は回収していきますから。ご迷惑おかけしました」 深夜の薔薇十字探偵社。扉を開ける前から考えておいた台詞をつらつらと述べて、僕は泥酔している木場先輩の肩をよいしょ、と担ぎなおした。
「うちの先生と木場の旦那が一緒に飲んでたんですがね、今日は珍しく旦那が先に潰れちまったんですよぅ――…すいませんが青木さん、迎えに来てくださいませんか?」
仕事がひと段落着いてさて帰ろうかという時。僕宛にそんな電話がかかってきたのは、そろそろ午前零時も回ろうかというふざけた時間帯で。 それでも渋々頷いたのは、先輩に頼られたという小さな高揚感が僕を寛容にさせていたからだ。 困り声の自称探偵秘書の後ろで、例の“神”が何事かをわめき立てていた。
「どうもすいません。青木さんくらいしか連絡する人が居なかったもんで…」 電話の声の通り、安和は困りきった表情で僕に頭を下げた。どうやら益田はもう帰った後らしい。 安和の謝罪に「いいえ」と短く答えて、僕は向かいのデスクにどっかと腰を下ろした美貌の探偵に視線を移す。 ビスクドールの如き肌は、並の女より余程きめ細かく美しい。すっと通った高い鼻梁、きりりとした濃い眉に透き通った薄茶の瞳。黙っていれば造り物にしか見えない白皙の麗人は、閉じているのか開けているのか分かりかねる半目で、言葉も発さずに僕――の若干上の方を見つめていた。何か視えるのか。 「榎さんは人の記憶が見える」 僕はほとんど無意識に、あの陰気な小説家の言葉を思い出した。
「何だ、次は猿君か! 全く君は訳が分からないなぁ」
突然、探偵はそう言い放った。呆然とする僕を置いてけぼりにして、彼はことさら勢いよく椅子から立ち上がると、つかつかと僕の目の前にやってきた。そして、つっ、と僕の眉間に指を突きつける。
「悪趣味だね」
ひやりとした。この人は僕の何を、視た? 黙り込む僕をもう一度ねめつけると、彼は急に興味を失ったように顔をふいと逸らした。胸のポケットから高そうな煙草を取り出して火をつける。ツンとしたその香りが鼻を掠め、僕は軽い眩暈を覚えた。 その瞬間、肩にかかった先輩の重みを思い出して体が傾ぐ。 「わぁっ」 傍らに控えてた安和が、間抜けな声を上げてそれを支えた。 「危ないですよ! 青木さん、どうなさったんですかい?」 「…いや…」 ぼうっとしたまま、上の空で応える。 「すいません、少し足元がふらついてー…」 「旦那は図体がでかいですからねぇ」 呑気に笑う彼を半ば無視して、僕はもう一度体勢を立て直した。 ふと窓に目をやると、そこは今の時分には珍しく完全に開け放たれている。そして、窓の向こうの暗闇から乾いた夜風が吹き込んでくるのを感じた途端に、僕は恐ろしく憂鬱な、今にも逃げ出したいような気分になった。。 寒々しい不安が突如頭をもたげて僕を襲う。 これ以上、此処に居るのはよくない。そう感じた。
「そろそろ本当に失礼しますね。僕も明日仕事がありますし」 未だ目の前に立ちはだかる榎本津さんをさりげなくかわして、僕は出口へと急ぐ。彼と目を合わせたくはなかった。 無駄なあがきだという事は百も承知だった。それでも、動揺して焦る姿を見られたくはなかったのだ。…特に彼には。
「自分の求めるものくらいしっかり見極めろ、愚か者」
先輩の重さに苦労しつつ扉を開けた瞬間、僕の背に向かってそんな言葉が投げつけられた。 安和には何のことだか分からないだろう。先輩は泥酔している。彼と僕以外、その言葉の真意を知るものはいない。しかし。
「はは。じゃあ僕はこれで」
平静を装って探偵社を出ると、後ろ手に扉を閉めた。ドアベルが、この場に相応しくない小気味良い音を立てる。僕はどうしても振り返ることが、どういう意味なのかと彼に問いただすことが出来なかった。 彼の瞳が怖かったのだ。 「あの人は神なんです」という益田の声が今にも聞こえてきそうで、僕は思わず舌打ちしそうになる。
突きつけられた言葉と向き合うことは出来ない。 自分が求めるものの正体など、僕は知りたくなかった。
end.
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