その日益田は、いつもの通り定刻に薔薇十字探偵社に出勤し、これもまたいつものように、安和相手に意味の無い言葉を並べたてて遊んでいた。 奥の扉がけたたましい音を立てて開き、中から探偵が満を持して登場した。朝食だ!と安和にわめく。 全て普段通り。今日も他愛のない日常が繰り返されるのだと、益田は信じきっていた。
しかし、益田のそんな予想はすぐに裏切られる。 一目彼の顔を見た途端、榎木津の眉間に深い皺が寄ったのだ。 くっ、と眇られるその双眸に、益田は彼が己を見ているのではなく、“視て”いるのだということを悟る。昨夜の青木との情事が頭をよぎった。 そうして故意に、感情に薄いフィルターをかけて思考を遮断する。
榎木津は何を視たのか。
考えてはいけない事柄だ。そんなものを明らかにした所で誰も喜びはしない。しかし、世界で唯一の探偵であり益田の神であるその人が、そんな曖昧さを許さなかった。 何も気付かないふりをして話を続けようとした益田の腕を、榎木津が力任せに掴んだ。そしてそのままずるずると引きずり、自室に押し込む。自らも部屋に入り扉を閉める直前、迷惑顔の安和に、朝食は後でいいと短く告げた。
「な、何ですか榎木津さ」 「黙れ」
悲鳴を上げる暇もなく壁に押し付けられ、次の瞬間無理やり唇を塞がれた。
「ん…っ」
驚いて身をよじる益田の身体をがっちりと掴んで、わずかばかりの抵抗すら封じる。 まるで肉食の獣だ。全てを貪り喰われるような錯覚を起こして、益田はぞくりと背筋を震わせた。 あまりのことに、頭がついていかない。何度も口付けられ、次第に深くなっていくそれに益田は言いようの無い恐怖感を覚える。
「…んぁ、な、なんでこんな」
唇を離されたわずかな合間を見計らって、切れ切れに問う。 榎木津はそれには答えずに、益田の顎を捕らえてぐいと上向かせた。
「案外男らしい顔をするんだな、あのこけし君は」 「っ!」
益田は、一瞬で己の身体が硬直するのがわかった。気付かれていることは知っている。しかし、まさか面と向かって指摘されるとは思わなかった。
「榎木津さん、なんで」
なんで、とそればかりが口をついて出る。半ばパニック状態に陥っている益田には、とても冷静な状況判断など出来はしなかった。無論、榎木津の真意が分かるはずもない。 榎木津は顎を掴んだ手にゆるゆると力を込めながら、不愉快そうに益田の鎖骨に歯を立てた。
「い…っ」 「僕は神だ。下僕の所有権は神にある」
がり、と犬歯が薄い皮膚に食い込む。自分の置かれた状況を忘れて、益田は倒錯的な痛みに酔った。
「え、榎木津さん…」 「お前に拒否権は無い。下僕は全て神のものだよ」
色素の薄い、鳶色の瞳が益田を射抜く。そこには恋情では無く、単に己の所有物を侵された不快感だけが宿っていた。
end.
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