「曽良君」
山をひとつ越え、里へ向かうその最中。ただ黙々と足を動かし続ける単調な道程に飽きて、前を歩く弟子に声をかける。数度重ねて呼んだ後、渋々振り返った彼の様子がいかにも欝陶しそうで、思わず苦笑が洩れた。 「何を笑っているんです」と彼は一度手を振り上げたけれど、殴られる前に私は、向かいに聳える山の端にかかった月をすっと指し示した。
「ほら、よく見て。今夜は三日月だ」 「……」
気付いていなかった、ということはあるまい。曲がりなりにも彼は私の弟子なのだから。しかし、その漆黒の瞳に件の月を映してもなお、彼は無言のままだった。 漆を流し込んだような艶めかしい黒と、淡く輝く白。対比がなんとも美しいな、と一人感心しながらその様子を見つめていると、彼がぽつりと言葉を零した。
「…寒々しいと、思いませんか」
感情を押し殺したような声が、すっかり暗くなった山路に深々と響いた。
「曽良君は、月が嫌いなの?」 「貴方は好きなのですか」
月を映していた瞳がこちらに向けられ、視線が絡まる。同じ黒であるというのに、彼のそれは冷たい光を宿し、決して暗闇と同化しない。冴えやかなその眼差しが、私はとても好きだった。
「好きだよ、すごくね。確かに寒々しいけれど、美しい」
そう返してやると、彼は何だか泣きそうな表情になって私から顔を背けた。そうして、目を伏せたまま言った。
「僕は嫌いです。――だから真逆の存在に焦がれるんだ」 「何に焦がれるって?」
太陽に、と低く呟いて、彼は再び踵を返して歩き出した。 慌ててその後を追いながら、私はもう一度空を見上げる。そこには痛々しく研ぎ澄まされた三日月が、相変わらず無言で輝いていた。
end.
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