店から出てふと視線を上に上げると、分厚い雨雲が完全に空を覆っていた。今にも泣き出しそうなその様子に小さく舌打ちをする。こんな時に限って傘を持ってきていない。 出掛ける前に、モヒカン頭のやけに面倒見の良い部下が何か言っていたような気がしていたのだが、今になってようやくその意味を知った。
『今日は夕方から雨よ。傘を持って行かないと――』
そういえばそんな事を言っていた。今更思い出したところで遅いのだが。
「……」
夕方の大通りは、家路を急ぐ人々で賑わっていた。 夕飯の材料を抱えた女と、その周りではしゃぐ子供。眉間に皺を寄せ、早足で歩く初老の男。学校帰りの若者の群れ。彼らの手にはいずれも、思い思いの傘が握られていた。 日常の何気ない風景がそこにはある。多くの者にとってそれは当たり前で、ごく限られた者にとっては、望みも与えられもしなかった生活だ。ささやかな温もりを持つ、それぞれの平凡な人生。
XANXUSは傘を持たない。
ポタリ、と地面に水滴が落ちた。じわりと滲んだそれを認める暇も無く、辺りは急に暗くなる。 「雨だ!」という誰かの声と共に、降り出した雨は急激に勢いを増していく。店の軒先に立ち尽くしたまま、XANXUSは大通りにポツポツと咲いていく色取り取りの傘を、ただぼんやりと見つめ続けた。 脳裏をよぎる幼い記憶に、少しだけ感傷的な気分になる。 こんな雨の日は嫌いだ。母親であった女性の悲しげな微笑や、大切な人間を失いかけた時の事ばかりを思い出す。濡れた身体は熱を奪われ、水を吸った衣服は重く纏わりつく。差し出されることの無い傘――いつだってそうだった。 雨の匂いが濃厚に立ち込める頃、辺りはすっかり土砂降りになっていた。大抵の人間は帰ってしまったようで、先程まで賑わっていた通りも、今はまばらに人が行き来するだけだ。 何度か店主が傘を貸そうかと申し出てくれたのだが、XANXUSは敢えてそれを断った。ただ、何も言わず、何も考えず、ひたすら雨を止むのを待つ。
暇つぶしに点けた煙草の火が赤く灯っている。頼りない温もりが今は慕わしい。
深く吸い込み、そして大きく紫煙を吐き出した所で、白く煙った視界の奥から見慣れた銀髪がこちらへ走ってくるのが見えた。 バシャバシャと騒々しく水を跳ねさせる乱暴な走り方。平凡な街並みにそぐわない、黒いコート。間違いなくあれは。
「……スクアーロ」
呆けたように呟いたXANXUSの口から、ぽろりと煙草が落ちた。ジュっと微かな音を立てて水溜りへ浮かんだそれを気にするでもなく、怪訝な表情で目の前の男を見つめる。 傘を二本手にしたスクアーロは、肩で息をしながらXANXUSの目の前まで来ると、持っていた傘の一本を彼にずいと差し出した。
「何だ」 「何だ、じゃねぇよ…迎えに来た」
ルッスーリアからボスが傘持ってねぇって聞いたんだよ。 当然だと言わんばかりの顔つきで言う。二本持っていたのだから、もう片方は自分用の傘なのだろう。差すのも忘れて走ってきた男の馬鹿さ加減に呆れて、言葉も出ない。事実、雨宿りをしていたXANXUSよりも、迎えに来たスクアーロの方が酷い有様だった。コートの裾からぼたぼたと水滴が落ちる。見事な濡れ鼠状態だ。
「…帰るぞ」 「おぉい、ボス! 待てよ、ちゃんと傘差せって!」 「お前に言われたくない」
渡された傘を開く。隣に立つ男も同様に開いたのを見届けてから、XANXUSは歩き始めた。 雨足は酷くなる一方だ。 帰ったら真っ先に風呂に入って、その後はルッスーリアに何か温かいものでも作って貰うつもりだった。でないと、この馬鹿な男が風邪を引いてしまうから。
end.
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