「どうして」
程よく甘いソプラノが、頼りなげにゆらゆらと宙に浮いた。 まるで己が悲劇のヒロインでもあるかのように涙ぐむ依頼人を前にして、僕は「はぁ」だとか「どうも、これは」だとか、気の利かない台詞ばかりを繰り返している。 面倒な仕事だ。 気怠い午後の陽気が僕のやる気を奪い、更に憂鬱にする。 窓から差し込む、靄のかかったような日の光がやけに神経に障って、僕はほとんど機械的に目を細めた。
彼女が依頼してきたのは、世間によくあるような、自分の亭主の浮気調査だった。 当然うちの探偵はそんな依頼聞きもしないから、その仕事は僕に回ってきた。 二ヶ月間黙々と亭主の尾行を続けた結果は、やっぱり世間によくあるもので。
「あの人、どうして私以外の女なんかと…」
綺麗に紅を引いた唇を震わせて、彼女が呟いた。 肩の辺りまで伸びた、柔らかそうな髪がふわりと揺れる。そのたびに、控えめに付けられた香水が僕の鼻をかすめた。 彼女は、世間的に見たら十分美しい部類に入るのだろう。 助けを求めるかのように、こちらに潤んだ視線が向けられたけれど、無論真剣に取り合うつもりはなかった。
「こんな結果ってあんまりだわ。ねぇ探偵さん、私…私はどうしたらいいんです?」 「いやぁ、それは…」
よくある話ですから、とは言わない。さすがに僕も、そこまでは薄情になれない。 こうなってしまった場合、とことん相手の話に頷いてやるのが得策だ。その方が、かえって早く解放してもらえる。
彼女の話はいつしか浮気亭主から逸れて、日常の愚痴にまで拡散していく。 そんなくだらない話を上手く聞き流しながら、僕は最後にひとつだけ、心からの忠告をする。
「あのね、嫉妬できるだけ幸せだと思いますよ」
得意の薄っぺらい笑顔を頬に張り付けたまま、それ以上の追求は拒んだ。 彼女はとても不可解そうだったけれど、まぁ構わない。
ほんの一時でも、相手に愛して貰えたんだろう。嫉妬できるだけ幸せだと、何故気付かない。
愛も嫉妬も叶わない僕にとって、彼女は疎ましい存在以外の何者でもなかった。
end.
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