京極 | ナノ



 その日の探偵の気分は上々だったらしい。
 鼻歌交じりに乗馬用の鞭を弄びながら、大人しく机の前に座っている。応接用のソファで報告書を作成していた益田は、その姿をそっと盗み見た。
 今日の榎木津の服装は割合に普通で、その仕立ての良さそうな白いシャツが、彼の美しさを一層引き立てていた。
 身に着けるものがシンプルであればあるほど、素材の魅力が明瞭になるのだという事を、益田は彼を見て初めて知った。
 彼は美しい。眩しすぎて、直接目を合わせてはいけないのだと自らを戒めてしまうくらいに。

「カマオロカ!」

 ふいにそう呼ばれ、益田はびくりと肩を揺らした。ぶしつけに視線を送っていた事を咎められるかと、恐る恐る顔を上げると、榎木津は彼を見てはいなかった。否、正確に言うと、彼の頭上の辺りを視ていた。
その独特な表情を、益田はどうしても見慣れることが出来ない。まるで何かに魅せられたたような顔をする榎木津は、いつだって彼の卑小な心を掻き乱すのだ。

「何でしょう?榎木津さ―…」
「人の家にのこのこついて行って、尚且つ上がりこんで茶を飲むなんて、お前は本当に図々しいなぁ」

 心底嫌そうな顔で彼が言った。
 初め、何の事を言われたのかよく分からなかった益田は困惑して首を傾げたが、すぐに思い当る事柄を見つけた。榎木津が言っているのは、おそらく今日手がけた仕事の事だろう。




 結果報告のためとはいえ、依頼人の家に上がるのは、益田としても本来なら避けたい所だった。しかし、どうしてもと強く言われてしまえば、雇われた身としては断りようが無い。
 元々が意志薄弱な人間である。相手の提案に、益田はあまり深く考えずに頷いたのだった。
 上機嫌で益田を迎え入れてくれた依頼人の女性は、いかにも上流階級といった風情の、穏やかな老婦人だった。
 親子程にも歳の離れた彼を、彼女はまるで息子か何かのように扱った。慈愛に満ちた声で「探偵さん」と呼ばれるのは、何となく気恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。

 広いポーチに吹き抜けの応接間、赤々と燃える暖炉。優しげな微笑。そして何より――…

「ピアノがあったのか」

 益田の記憶を視たのだろう、榎木津は半目になって、微かに笑った。
 部屋中に響き渡るような哄笑でもなく、何かを面白がるような笑いでもない、あの老婦人が見せてくれたような微笑だった。

「そういえば、お前はピアノを弾けるとか何とか言ってたな」
「お…」

 覚えてたんですねェ。と、益田は努めて明るく言った。あの白く滑らかな鍵盤の感触を思い出して、彼の指先が小さく震える。
 「何かお聴かせになってくださいな」と、ピアノの椅子を引いた老婦人の姿が目に浮かぶ。久々の演奏は、やはり何というか、心が弾んだ。


(ああ、違うんだ。そういう事じゃなくって…)



 何か軽口の一つでもたたかなければ、と益田が息を吸い込んだ時。奥で話を聞いていたらしい安和が、珈琲を三つ乗せた盆を持ってこちらにやって来た。
 後ろから益田に近づき、その顔を覗き込むようにしてカップを置きながら笑う。

「いくら君のピアノが上手くたって、うちにそんな図体のでかいものは置けやしませんぜ――…って、おや益田君、なんて顔してるんです!」
「…え?」
「随分辛そうな顔してますが、どこか加減でも悪いんじゃないですか? ねぇ、先生」

 同意を求められた榎木津は、呆れたようにフンと鼻を鳴らして益田をねめつけた。安和の運んできた珈琲を一口飲むと、蔑むような視線を残して顔を背けた。

「気色悪いぞ。カマオロカめ」

 呆然とそのやり取りを眺めていた益田は、ここへ至ってようやく、自分が今にも泣き出しそうな表情をしていた事に気がついた。
 取り繕うように頬に手をやると、強張った筋肉の感触がわずかに伝わってきた。

 別に辛いのではない。むしろ嬉しかったのだ。
 彼の視界に、少しでも自分が入っていたこと。その記憶に少しでも留めて置いてもらえたこと。
 たったそれだけで、益田は全身が打ち震えるほどの歓喜を覚える。

 これ以上を求めようとは思わなかった。
 榎木津と益田の関係は所詮どこまで行っても神と下僕にすぎず、神の愛する対象が一つしか存在しない事を、彼は充分に承知している。
 しかし、だからこそ嬉しかった。

「嫌だなァ、榎木津さんが僕の記憶なんて視るから。演奏、失敗したのばれちゃったじゃないですか」

 ケケケ、と殊更下品に笑ってそう言うと、安和が拍子抜けして溜め息をつくのが分かった。

「なんだいそういう事かい。全くそれなら君も、あそこまで悲愴な顔しなくたっていいだろうに」
「僕ァ悲劇の主人公を気取るのが大好きなもんで」




 悪趣味だ何だと喚く安和を適当にあしらいながら、益田はもう一度榎木津を盗み見る。
 当然ながら榎木津の瞳は、もう彼を映してはいなかった。
 しかしそれでも幸福だと感じてしまう己の心が、恐ろしく滑稽だ。

 何だか本当に泣きたくなってきて、彼は一気に珈琲をあおった。
 安和が丹精込めて淹れてくれたはずのそれは、何故だかひどく苦く感じられた。










end.



幸せは苦く、苦く(益→榎)



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