京極 | ナノ

※塗仏後。ほんの少しネタばれあり。










 敦子さんが姿を消したと報告しに行った時の、鳥口君の顔が未だに忘れられないでいる。
 憤りを抑えられない様子で僕に掴みかかった彼は、見ているこちらが切なくなるような、ひどく余裕の無い顔をしていた。
 されるがままに揺さぶられながら、ああ、やっぱり彼は敦子さんが好きなのだな、と。その時僕は改めて思ったのだった。
 実は、もう少し複雑な心境になるかなと予想もしていた。だけど、意外にも僕はそんな彼を、拍子抜けする程すんなりと受け入れてしまっていた。
 僕だって男だから、何となく彼女――敦子さんの事が気にならないわけではない。だけどきっと、僕の「気になる」は彼の「気になる」とは違うのだろう。そして、もしかしたら青木さんの「気になる」とも。

「……青木さん」
 盛りを過ぎたとはいえ、夜半でも室内は充分に蒸し暑かった。僕は半分ほど開けていた窓を全開にして網戸を閉めた後、隣で裸の背を晒して横たわっている男に声をかけた。返事は無い。
 眠ってはいないのだろうが、無視されるのは慣れっこなのでどうでもいい。ただ、極めて独り言に近い言葉をぽつぽつと投げかける。
「ねぇ、青木さん。僕はね、敦子さんが居なくなった時、本当につらかった、心配だったんです。後悔もした。なんであの時追いかけられなかったんだろう、って。…でも」
 そこまで言うと、僕は口を噤んだ。こんな事を吐き出して何になるというのだろう。あまりにも不毛で、悲しいだけじゃないか。そう考えて、小さく溜め息をついた。
 規則的に上下する背中。均整のとれたその身体は美しかった。地味な性格が仇となっているだけで、その気になれば女の一人や二人わけもなく作れるんだろう。それこそ、鳥口君や彼が憧れてやまない、彼女だって。
 くだらない、行き場の無い感情だった。自分自身にすら理解出来ていないのだから、言葉に表しようも無い。僕はそれ以上何も考えられなくなって、足元の衣服に手を伸ばした。
 情事の痕跡を今更になって隠したくなったのだ。脱ぎ散らかしていたそれを掻き集め、ゆっくりと身に着けていく。彼と情を交わしているという事実が、どうしようもなく恐ろしい事であるように思えた。
 そしてシャツのボタンを留め終えてようやく一息ついた時、それまで黙ったまま背を向けていた青木さんが、唐突に言った。
「…続きは」
「え?」
「途中で止められちゃ気持ちが悪い。最後まで言ったどうなんだ。“でも”何だい」
 のそりと起き上がった彼は、静かに振り向いて僕を見据えた。感情の見えない、僕にしか見せない表情をして、彼は淡々と僕を追い詰める。簡単に追い詰めてしまう。
「青木さん、起きてたんですか」
「君が煩いから」
 動揺を隠して問いかけると、ふんと鼻を鳴らして視線を逸らされた。拒絶とも取れる仕草に胸がざわつく。大丈夫だ。どんな態度を取られても、元々傷つくような関係ではないと、自分で自分に言い聞かせる。
「大した事じゃないんですよ。自分で何を言いたかったかも忘れてしまいました」
「君は、元警官のくせに嘘が下手だ」
 抑揚の無い声音は必要以上に冷たく聞こえて、まるで叱られているような気分になる。首をすくめた僕に煩わしげな一瞥をくれると、青木さんは先程の僕と同様、脇に脱ぎ捨てていたシャツを羽織った。
「怒っているんですか」
「別に。…ただ」
 そこで一旦言葉を切ると、青木さんは輪郭をなぞるように、僕の頬に触れた。
「青木さん?」
「君と彼女は違う」
 それだけ言うと、青木さんは急に興味を失ったかのように手を離し、もう一度布団に入ってしまった。
「何ですか、それ…」
 僕は真意を確かめる事も出来ずに、ただ黙って彼の言葉を反芻する。深夜に一人だけ取り残されてしまったような不安感に襲われて、僕も慌てて横になった。
 一度寝る体勢に入ってしまうと、それ以上詮索するのがひどく億劫になる。網戸越しに夏の夜気が這い寄り、僕と彼の間をすっかり埋めてしまった。

 答えは一旦保留にするしかなさそうだ。
 またこちらに背を向けてしまった青木さんを、少し恨めしげに睨む。意趣返しに、振り向いて「君が一番だよ」と笑う彼を想像しようとしたが、あまりにひどくて直ぐにやめた。
 明日には何も無かったような顔をして、いつもどおり彼に「おはようございます」と言おう。そう思った。





end.



箱の底に残ったもの(青益)



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