京極 | ナノ



 青木が風邪を引いた、と益田が知ったのは、未だ肌寒い日が続く三月の事だった。偶然探偵社に立ち寄った木場から、その情報はもたらされた。本当に偶々だ。
 益田が資料整理のため社に残っていなければ、きっと誰にも知らせては貰えなかっただろう。それこそ、青木本人にすら。
益田は女ではないから、いそいそと看病に行く気など全く無い。そもそも、青木とは付き合ってもいない。だが、胸のうちにわだかまるものがあるのも事実だった。

 その日の夕方、益田は挨拶もそこそこに探偵社を出た。いつもなら夕餉の相伴に与ろうとする益田が、珍しくすんなり帰る素振りを見せた事に、安和は目を丸くしていた。榎木津は、顔をしかめて「カマはさっさと居なくなれ」と言った。きっと全てお見通しなのだろう。「はい」と小さく答えて、益田はその場を後にした。彼を前に己を取り繕う事を、半ば益田は放棄しかけている。
通い慣れた道を急ぐ。いつのまにか慣れる程足を運んでいた事実に、益田の口許から苦笑が漏れる。お笑い草だ。何度も何度も、形を変えてしまうまで同じ過ちを繰り返してきた代償なのだろう。それでも行かずにはいられない。だが、益田はこの感情に見てみぬ振りをする。いつもそうだった。
考えても仕方がないなら、しっかり蓋をしてしまえばいい。益田はそんな事ばかり思いながら、やがて青木の下宿まで辿り着いた。






 益田の顔を見た途端、どうしてという純粋な疑問の他に、わざわざやって来た理由を問い質したい衝動に駆られて、青木は顔をしかめた。熱が下がらず、ただでさえ怠いのだ。しつこく玄関の戸を叩かれなければ、無視してさっさと寝てしまいたかったくらいなのに。
「…何の用ですか」
 不機嫌も露に益田を見下ろす。肉付きの薄い肩を僅かに震わせて、彼は気まずげに目を逸らした。
「あの、木場さんが」
「先輩が?」
 思いもよらない名前を聞いて身を乗り出した青木を一瞥して、益田は「とりあえず入れて下さいよ」と呟いた。渋々身を引いて益田を中に通す。寝乱れた姿や布団に何気なく視線を寄越す様子に、無性に不快感が募った。
「木場さんが、今日うちに来たんですよ。で、偶々あなたが風邪引いてるって聞いて」
 ぼそぼそと聞き取り難い声で言う。だから何だ。見舞いにでも来たというのか。何故。
「木場さん、そっちに行ってたんですね。仕事中だろうに、なんでまた」
「そうじゃなくて」
 青木の言葉を遮って、益田が些か乱暴に口を挟んだ。
「そうじゃなくて…その、風邪」
「仰るとおり僕は風邪引いてますけど」
「なんで…言ってくれなかったんですか…」

 益田の口調はどんどん勢いをなくし、語尾はほとんど聞き取れなかった。そのまま押し黙ってしまった彼を前に、やっと治りかけていた青木の頭痛がぶり返してくる。はぁ、とあからさまに溜め息を吐くと、益田が小さく身じろぎした。

「なんでって、当たり前じゃないですか。君の下宿や、勤め先にわざわざ電話しろと?風邪を引いてますって、伝言を頼むんですか。冗談じゃない」
 敢えて突き放すように畳み掛けていく。顔を上げた益田の泣きそうな表情を見ても、責め立てるのを止める気にはなれなかった。
「それは、そうですけど」
「ええ、正論でしょう。寧ろ君の方がどうかしてる。こんな、まるで恋人みたいに」


恋人みたいに


 まるで場にそぐわない言葉だ。証拠に、それは青木の口からこぼれ出た途端、所在なさげに二人の間に転がった。白々しい、安っぽい──そんな形容詞がよく似合う。それはとても安心できる事実だが、同時にどこか寂しくもあった。

「……帰ります」
 呆然とした様子で、益田が小さく言った。まるで初めて己の行動の意味を理解したような、困惑を隠せない表情だった。
 震える足で立ち上がるから、座卓はガタンと音を立てて揺れた。
「ちょっと、益田君」
「いい、いいんです。忘れて下さい。帰りますから」

 振り返りもしない。逃げるように玄関へ向かう益田を前にして、青木はようやく後悔した。先程の言葉は明らかに失言だった。益田にかけてやりたかったのは、本当はもっと違う言葉だったはずだ。それなのに。
 一度思考を敢えて遮断し、青木は戸に手をかけた益田の腕をぐい、と咄嗟に引いた。

「青木さん」
「違う。ごめん…謝るから」

 尚も不審そうにこちらを見つめてくる益田の視線を受け止めきれずに、青木は下を向く。先程の益田と、ちょうど同じように。

「…青木さん、どうして引き止めたんですか」

 ゆっくりと青木に向き直った益田が、掴まれていた腕を外す。そうして、青木の手を両手でそっと握った。
 青木は自分の肌が、思いの外そのひんやりとした感触に馴染んでいる事に驚いた。だが、手を振りほどこうとはしない。代わりに問い掛ける。

「君こそ、どうして来たんだい」
「だからそれは木場さんが、」
「僕は」
 益田の言葉を遮って言う。くだらない言い訳など聞きたくもない。それよりも、伝えたい事がある。
「嬉しかったよ。君が来てくれて、嬉しかった。本当はさっきもそう言いたかった」

 そう呟くと、青木は益田の引き結んだ唇に触れるだけの口付けを落とした。大きく震えて逃げようとする身体を押さえ付けて、今度は深く。何度も繰り返すうちに弛緩した益田の腰を支え、青木は名残惜しげに唇を離した。
「意味が分からないですよ…」
 口許を拭いながらこちらを睨み付けた益田の頬は、うっすらと上気していた。
 このまま帰せるはずがない。
 唐突に訪れた切なさに任せて、青木は改めて、益田の朱に染まった耳許に「見舞いに来たんでしょう。看病してください」と囁いた。








end.



袖引き乙女(青益)



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